記憶の整理
中山 光広
三十七年間の開発局公務員生活を無事終え、諸先輩、現職のみなさまに感謝申し上げます。また、この「道の思い出」の執筆により自身の記憶の整理させていただく機会をいただきましたことを重ねて感謝申し上げます。
一 海水浴場
昭和六十三年三月末日、JR留萌駅に降り立ち「開発第二寮」へ入寮、翌日から留萌開建に採用されました。配属の道路第一課では、五万分を相手に色塗りに励みました。丁度、外注でカラーコーピーが使われ出した頃です。
平成二年、苫前道路建設事業所への異動にてあこがれの長期出張となりました。監督員デビュー作は、古丹別市街の「天竜橋」でした。橋梁上部工に加え、土工、路盤工、舗装工、防護柵工、護岸工、護床工さらに植樹工まで網羅された附帯工事であり、土木工事標準体系にあるすべての工種があると言っても良いぐらいに思えました。つい先日、元事業所(現古丹別除雪ST)の前を通りかかり、玄関先を見ると「苫前道路道路建設事業所」の看板が掲げられておりしみじみと眺めました。(写真1)平成五年、留萌開発事務所へ異動し海水浴場(臼谷海水浴場、浜中海水浴場、暑寒海水浴場)に隣接した工事ばかり担当しました。
令和九年、滝川道路事務所浜益分駐所での長期出張となり、浜益海水浴場近辺の工事、点在した防災工事のほか旧送毛トンネルの部分的な支保工の入替えと水抜き水平ボーリングを担当しました。分駐所は係長と係員二名の計三名体制でしたが、途中係長が長期入院し係員二人で心細く過ごしました。
二 年維持の楽しさを知った。
平成十年に滝川道路事務所維持課に異動し、初めて維持除雪工事を担当しました。平成十三年に生まれ育った地である苫小牧道路事務所維持課に異動しましたが、知識と経験を次年度に継続して仕事が出来る年維持の魅力に傾倒し今に至ります。平成十六年から四年間、沼の端駅からJR利用で室蘭開建本部まで唯一の公共交通機関利用通勤となりました。
三 開発局で一番木を植えた
平成二十年、北見道路事務所に移動し市民団体と一緒に緑化活動を精力的に多数企画しました。敬愛する斎藤新一郎先生からは「開発局で一番木を植えてくれたのは中山さんですね。」とお褒めの言葉をいただきました。ニホンザリガニを探すことにも忙しく、その後何年もザリガニカフェやサミットなどに招待されました。その二年間、オホーツク二建会の皆さんや母校(北見工大)の先生方に非常に助けられ、建設管理部や北見市役所建設部とも大変仲の良い関係でした。
四 越波さん
平成二十二年、浦河道路事務所に異動となり、一般国道三三六号の黄金道路は年間二十五回弱の通行止めを経験しました。事務所には道路情報連絡員がおられ、非常に難解な浜言葉への対応から道路情報板の操作まで熟練しており、所員は親しみを込めて「越波さん」と呼びました。そう呼ぶのは、かつての黄金道路が海岸に面し明かり部分が多く越波被害が多かったためです。
平成二十二年十二月、黄金道路の海岸隣接したオンコの沢覆道が高波により激しく被災しました。近辺に迂回路が無かったのですが、「襟広防災」事業の一環として、既設の宇遠別トンネル(三、二一五m)の途中から分岐した仮称第二宇遠別トンネル(一、九二七m)を施工しており掘削・覆工は完了していたのです。住民や自治体からは、なんとか通行させてほしいとの強い要望は当然でした。通行許可書を発行することで第二宇遠別トンネルを通行可能にしましたが、実は既設宇遠別トンネルも平成十六年一月に海岸部現道の斜面崩壊(開発局の職員1名が亡くなられております。)が発生し、施工中の既設宇遠別トンネルを急遽通行させた過去が有ったと聞きます。平成二十三年二月二日に名称を改めた「えりも黄金トンネル」(四、九四一m)が開通し、それまで道内道路トンネルで最長だった国道二三六号 (天馬街道)の野塚トンネル(四、二三二m)を抜き道内最長となりました。
五 サクラソウ
平成二十四年秋、四十八才にして結婚し翌年には娘が生まれました。平成二十五年、二度目の苫小牧道路事務所勤務となり、自宅通勤でき、日高自動車道敷地内にて緑化活動にいそしみました。その実積を整理し東京へ向かい生物学者であられる鷲谷いづみ先生(東京大学名誉教授、中央大学元教授)に預かっていただいていた日高自動車道自生のサクラソウをお返しいただくようお願いしました。先生の著書を五冊ほど熟読し外来種に対する知識を付け焼き刃ながら学習し臨み、一度目は会っていただけなかったのですが二度目はお目にかかれて「返します。」の言葉に涙が出るほどうれしかったのを覚えています。
六 被災もしたが最高に楽しかった帯広
平成二十八年、帯広道路事務所に異動しました。年維持工事(含むパッチング工事)が七本もあり楽しみました。そのような中、八月二十九日から太平洋側東部を中心に雨が続き、三十一日までの総雨量は日高山脈周辺で三〇〇㎜を超える大雨となり、一般国道三十八号および二七四号は落橋等のため通行止が長期に及び日勝峠は十四ヵ月開通しませんでした。災害対応中は私の指示ミスが有り多くの方に御迷惑をおかけしました。唯一の救いは事細かに時系列を記録しおり、その後の嵐のような提出物に対応出来たことです。
翌二十九年七月は、被災した日高山脈四十二㎞を二泊三日(予定は二泊三日であったが、登山道上に金色の毛がたなびく巨大な熊が高山植物の根をゆっくり食していたため足止めされ登山道上で急遽テン泊)で横断し、念願の一九六七峰を踏めました。延々続くハイマツこぎは時速一㎞がやっとであり、足を含め身体中ヤニとあざだらけで三万四千カロリーを消費しました。三十年一月には、国鉄狩勝線廃線跡を狩勝峠頂上から小笹川橋梁まで幾何学的な円弧のルートを辿りスノーシューで散策しGNSSによりログを取りました。そこから三次元CADがない時代に切盛り土量・曲率を考えて一律勾配二・五%ピタリに施工したことが明確に理解でき脱帽するしかありませんでした。(写真2)
七 安全協議連絡会の理想像
千歳道路事務所異動した平成三十年九月五日、台風二十一号の豪雨により一般国道四五三号の支笏湖畔にて大規模な土砂崩れが発生し、風倒木も大量に発生しました。同日夕方ふらふらになり一時帰宅し入浴もせず深く寝入っていたところ、六日午前三時過ぎに胆振東部地震が発生。残念なことに追加の土砂崩れが起きておりました。この頃は、道央圏連絡道路の泉郷道路事業の最盛期であり、安全協議連絡会に所属する企業が多く、平成二十六年九・一一支笏豪雨災害への対応経験から鍛え上げられた同会の活躍は目覚ましく、機材の調達、風倒木処理及び大型土のう製作運搬などが迅速用意周到で、安全協議連絡会の理想像に触れた気がしました。終盤、大停電のおかげで重機の給油に困窮し始め除雪トラックの軽油を流用し耐え忍びました。孤立した丸駒温泉と計157回の電話通話を行ったことは今では良い思い出です。
八 DX
子育てと母の介護が必要となった時節、令和三年に苫小牧道路事務所の三度目の勤務となりました。日高自動車道の工事を担当し強制収容の地権者と対応し軽種馬生産牧場(種牡馬を交配し子馬を産ませる牧場で音に敏感)の隣接地で作業することは心をすり減らす思いでしたが、二年間に渡り建設DXを担当する幸運に恵まれました。令和五年最終勤務地となった二度目の千歳道路事務所勤務中に、土木学会建設マネジメント委員会の優秀講演賞を「道路維持管理の建設DXへ活かす改築事業の知見~女性視点から考えた映えるクラウド型GISサービスの志向~」にて受賞しました。私は、論文とビジュアル勝負で挑んだパワーポイント作成の監修を行った立場であり、受賞者はあくまでも発表者でしたが、この上ない退職の記念とさせていただきました。
㈱出口組 勤務
記憶の整理
三十七年間の開発局公務員生活を無事終え、諸先輩のみなさま、現職のみなさまに感謝申し上げます。また、この「道の思い出」の執筆により自身の記憶の整理させていただく機会をいただきましたことを重ねて感謝申し上げます。
1 海水浴場
昭和六十三年三月末日、JR留萌駅に降り立ち「開発第二寮」へ入寮、翌日から留萌開建に採用されました。配属の道路第一課では、五万分を相手に色塗りに励みました。丁度、外注でカラーコーピーが使われ出した頃です。
平成二年、苫前道路建設事業所への異動にてあこがれの長期出張となりました。監督員デビュー作は、古丹別市街の「天竜橋」でした。橋梁上部工に加え、土工、路盤工、舗装工、防護柵工、護岸工、護床工さらに植樹工まで網羅された附帯工事であり、土木工事標準体系にあるすべての工種があると言っても良いぐらいに思えました。つい先日、元苫前道路建設事業所(現古丹別除雪ステーション)の前を通りかかり、玄関先を見ると「苫前道路道路建設事業所」の看板が掲げられておりしみじみと眺めました。(写真1)平成五年、留萌開発事務所へ異動し海水浴場(臼谷海水浴場、浜中海水浴場、暑寒海水浴場)に隣接した工事ばかり担当しました。
令和九年、滝川道路事務所浜益分駐所での長期出張となり、浜益海水浴場近辺の工事、点在した防災工事のほか旧送毛トンネルの部分的な支保工の入替えと水抜き水平ボーリングを担当しました。分駐所は係長と係員二名の計三名体制でしたが、途中係長が長期入院し係員二人で心細く過ごしました。
2 年維持の楽しさを知った。
令和十年に滝川道路事務所維持課に異動し、初めて維持除雪工事を担当しました。令和十三年に生まれ育った地である苫小牧道路事務所維持課に異動しましたが、知識と経験を次年度に継続して仕事が出来る年維持に非常に魅力を感じるようになり退職後の現在まで年維持に傾倒しています。令和十六年から四年間、沼の端駅からJR利用で室蘭開建本部まで通勤したのは唯一の公共交通機関利用となりました。
3 開発局で一番木を植えた
平成二十年、北見道路事務所に移動し市民団体と一緒に緑化活動を精力的に多数企画しました。敬愛する斎藤新一郎先生からは「開発局で一番木を植えてくれたのは中山さんですね。」とお褒めの言葉をいただきました。ニホンザリガニを探すことにも忙しく、その後何年もザリガニカフェやサミットなどに招待されました。その二年間、オホーツク二建会の皆さんや母校(北見工大)の先生方に非常に助けられ、建設管理部や北見市役所建設部とも大変仲の良い関係でした。
4 越波さん
平成二十二年、浦河道路事務所に異動となりました。一般国道三三六号の黄金道路は年間二十五回程度通行止めになりました。事務所には道路情報連絡員がおり、非常に難解な浜言葉への対応から道路情報板の操作まで熟練しており、所員は親しみを込めて「越波さん」と呼ぶことがありました。そう呼ぶのは、かつての黄金道路が海岸に面し明かり部分が多く越波被害が多かったためです。現在はトンネル部が多くなり越波被害が少なくなったと感じます。
平成二十二年十二月、黄金道路の海岸隣接したオンコの沢覆道が高波により激しく被災しました。近辺に迂回路が無かったのですが、 「襟広防災」事業の一環として、既設の宇遠別トンネル(三、二一五m)の途中から分岐した仮称第二宇遠別トンネル(一、九二七m)を施工しており掘削・覆工は完了していたのです。住民や自治体からは、通行時間を制限することでもなんとか通行させてほしいとの強い要望があるのは当然だったと思います。通行許可書を発行することで第二宇遠別トンネルを通行可能にしましたが、実は既設宇遠別トンネルも平成十六年一月に海岸部現道の斜面崩壊(開発局の職員1名が亡くなられております。)が発生し、施工中の既設宇遠別トンネルを急遽通行させた過去が有ったと聞きます。平成二十三年二月二日に名称を改めた「えりも黄金トンネル」(四、九四一m)が開通し、それまで道内道路トンネルで最長だった国道二三六号 (天馬街道)の野塚トンネル(四、二三二m)を抜き道内最長となりました。
5 サクラソウ
平成二十四年秋、四十八才にして結婚し翌年には娘が生まれました。平成二十五年、二度目の苫小牧道路事務所勤務となりました。自宅から通勤できるようになり日高自動車道敷地内にて緑化活動にいそしみました。その実積を整理し東京へ向かい生物学者であられる鷲谷いづみ先生(東京大学名誉教授、中央大学元教授)に預かっていただいていた日高自動車道自生のサクラソウをお返しいただくようお願いした。先生の著書を五冊ほど熟読し外来種に対する知識を付け焼き刃ながら学習し臨んだ。一度目は会っていただけなかったが二度目はお目にかかれて「返します。」の言葉に涙が出るほどうれしかったのを覚えています。
6 被災もしたが最高に楽しかった帯広
平成二十八年、帯広道路事務所に異動しました。年維持工事(含むパッチング工事)が七本もあり楽しく仕事をさせていただきました。そのような中、八月二十九日から太平洋側東部を中心に雨が続き、三十一日までの総雨量は日高山脈周辺で多く三〇〇㎜を超える大雨となり、一般国道三十八号および二七四号は落橋等のため通行止が長期に及び日勝峠は十四ヵ月開通しませんでした。災害対応中は私の指示ミスが有り多くの方に御迷惑をおかけしました。唯一の救いは事細かに時系列を記録していたことであり、その後の嵐のような提出物に対応することが出来ました。
翌二十九年七月は、被災した日高山脈を二泊三日(予定は二泊三日であったが、登山道上に金色の毛がたなびく巨大な熊が高山植物の根をゆっくり食事していたため足止めされ登山道上で急遽テン泊)で横断し、夢の一九六七峰を踏めました。延々続くハイマツこぎは時速一㎞がやっとであり、足を含め身体中ヤニとあざだらけで三万四千カロリーを消費しました。三十年一月には、国鉄狩勝線廃線跡を狩勝峠頂上から小笹川橋梁まで幾何学的な円弧のルートを辿りスノーシューで散策しGNSSによりトラックログを取りました。そのログから三次元CADがない時代に切盛り土量・曲率を考えて勾配二・五%ピタリに施工したことが明確に理解でき脱帽のするしかありませんでした。(写真2)
7 安全協議連絡会の理想像
千歳道路事務所異動した平成三十年九月五日、台風二十一号の豪雨により一般国道四五三号の支笏湖畔にて大規模な土砂崩れが発生し千歳周辺は強風で風倒木が大量に発生しました。同日夕方ふらふらになりながら一時帰宅し入浴もせず深く寝入っていたところ、六日午前三時過ぎに北海道胆振東部地震が発生。残念なことに追加の土砂崩れが起きておりました。平成二十八年は、道央圏連絡道路の泉郷道路事業の最盛期であり、安全協議連絡会に所属する企業が多数いたことや、平成二十六年九・一一支笏豪雨災害への対応経験から鍛え上げられた安全協議連絡会の活躍は目覚ましく、機材の調達、風倒木の処理及び土砂崩れ箇所への大型土のう製作運搬などが迅速用意周到で、安全協議連絡会の理想像に触れた気がしました。終盤、大停電のおかげで重機の給油に困窮し始めましたが除雪車の軽油を流用し耐え忍びました。孤立した丸駒温泉とは計157回の電話通話を行ったことは今では良い思い出です。
8 DX
子育てと母の介護が必要となった時節、令和三年に苫小牧道路事務所へ三度目の勤務となりました。日高自動車道の工事を担当し強制収容の地権者と対応したり軽種馬生産牧場(種牡馬を交配し子馬を産ませる牧場で音に敏感)の隣接地で作業することは心をすり減らす思いでしたが、二年間に渡り建設DXを担当する幸運に恵まれました。令和五年最終勤務地となった二度目の千歳道路事務所勤務中に、土木学会建設マネジメント委員会の優秀講演賞を「道路維持管理の建設DXへ活かす改築事業の知見~女性視点から考えた映えるクラウド型GISサービスの志向~」にて受賞しました。私は、論文とビジュアル勝負で挑んだパワーポイント作成のプロデュースを行った立場であり、受賞者はあくまでもプレゼンターでしたが、この上ない退職の記念とさせていただきました。
| 年目 | 年度 | 建設部 | 課所 | |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 1988d=昭和63年度 | 留萌開発建設部 | 道路第一課 | |
| 2 | 1989d=平成元年度 | 道路第一課 | ||
| 3 | 1990d=平成2年度 | 苫前道路道路建設事業所 | ||
| 4 | 1991d=平成3年度 | 苫前道路道路建設事業所 | ||
| 5 | 1992d=平成4年度 | 苫前道路道路建設事業所 | ||
| 6 | 1993d=平成5年度 | 留萌開発事務所 | ||
| 7 | 1994d=平成6年度 | 留萌開発事務所 | ||
| 8 | 1995d=平成7年度 | 留萌開発事務所 | ||
| 9 | 1996d=平成8年度 | 留萌開発事務所 | ||
| 10 | 1997d=平成9年度 | 札幌開発建設部 | 滝川道路事務所 浜益分駐所 | |
| 11 | 1998d=平成10年度 | 滝川道路事務所 | 係長 | |
| 12 | 1999d=平成11年度 | 滝川道路事務所 | 係長 | |
| 13 | 2000d=平成12年度 | 滝川道路事務所 | 係長 | |
| 14 | 2001d=平成13年度 | 室蘭開発建設部 | 苫小牧道路事務所 | 係長 |
| 15 | 2002d=平成14年度 | 苫小牧道路事務所 | 係長 | |
| 16 | 2003d=平成15年度 | 苫小牧道路事務所 | 係長 | |
| 17 | 2004d=平成16年度 | 企画課 設計審査係 | 係長 | |
| 18 | 2005d=平成17年度 | 道路第一課 | 係長 | |
| 19 | 2006d=平成18年度 | 道路第一課 | 係長 | |
| 20 | 2007d=平成19年度 | 道路第一課 | 専門官 | |
| 21 | 2008d=平成20年度 | 網走開発建設部 | 北見道路事務所 | 事務所課長 |
| 22 | 2009d=平成21年度 | 北見道路事務所 | 事務所課長 | |
| 23 | 2010d=平成22年度 | 室蘭開発建設部 | 浦河道路事務所 | 事務所課長 |
| 24 | 2011d=平成23年度 | 浦河道路事務所 | 事務所課長 | |
| 25 | 2012d=平成24年度 | 浦河道路事務所 | 事務所課長 | |
| 26 | 2013d=平成25年度 | 苫小牧道路事務所 | 事務所課長 | |
| 27 | 2014d=平成26年度 | 苫小牧道路事務所 | 事務所課長 | |
| 28 | 2015d=平成27年度 | 苫小牧道路事務所 | 事務所課長 | |
| 29 | 2016d=平成28年度 | 帯広開発建設部 | 帯広道路事務所 | 事務所課長 |
| 30 | 2017d=平成29年度 | 帯広道路事務所 | 事務所課長 | |
| 31 | 2018d=平成30年度 | 札幌開発建設部 | 千歳道路事務所 | 事務所課長 |
| 32 | 2019d=令和元年度 | 千歳道路事務所 | 事務所課長 | |
| 33 | 2020d=令和2年度 | 千歳道路事務所 | 事務所課長 | |
| 34 | 2021d=令和3年度 | 室蘭開発建設部 | 苫小牧道路事務所 | 保全官 |
| 35 | 2022d=令和4年度 | 苫小牧道路事務所 | 保全官 | |
| 36 | 2023d=令和5年度 | 札幌開発建設部 | 千歳道路事務所 | 副所長 |
| 37 | 2024d=令和6年度 | 千歳道路事務所 | 副所長 | |

道路会会報誌 「道」 原稿執筆要領
道路会編集部会
原稿は、会報誌の体裁統一のため、この原稿執筆要領に従ってご執筆願います。
●原稿
・なるべくMS-Word を使用し、書式自由でファイル名を題目(略称可)として作成して下さい。
・本誌は、和文縦書き三段組みでの掲載です。
提出原稿は横書きでも結構ですが、可能な限り縦書きでの提出をお願いします。
(参考として、縦書き三段組み、余白は上・下・左・右 二十㎜、文字数は二十字、行数は二十八行、文字の大きさMS明朝十・五ポイントです。)
●文字数
・誌面上で1頁は、縦書き3段(1段あたり文字数20×行数28 文字大きさ10.5)で構成します
・文字数は、3段で1700 字程度、2段(2/3頁)で1,100字程度です。
・挿入する写真・図・表の分量にあわせて、文字数を調整します。
(例えば、3段で写真1枚載せると1500字程度、2段で写真1枚載せると900字程度になります)
●文体・表記
・文体は、「です・ます」調を原則とします。
・年月は、元号表記とします。
・単位記号は、記号を用いて下さい。
・数字の表記は、原則として漢数字とします。
※横書き原稿の場合には、算用数字(アラビア数字)のままでも結構です。
編集部会の方で適宜校正致します。
・見出し番号は、「章・節・項」の順に、4、(1)、①のように付して下さい。
●図・表・写真
・写真は、なるべくフルカラーで、解像度の高いデータ(720dpi 以上)でご提出願います。
・大きさは、編集の都合上、変更する可能性がありますので、ご承知置き下さい。
・転載にあたっては、著者が事前にその転載該当部分の原著者に了解を得てから使用して下さい。
・原則として、表は上部に表―1など通し番号(本文掲載順に)および内容を的確に表す表題(タイトル)を20 字以内で付け、図および写真は下部に通し番号を記し簡単な説明(キャプション)を20 字以内で付けて下さい。
●その他
・会報誌の体裁統一のため、割り付け(レイアウト)・表記・用法などについては、編集部会にご一任下さい。
以 上
道路会会報誌 「道(みち)」 原稿執筆要領(詳細)
道路会編集部会
●文字数
一 誌面上で一ページは、約一、七〇〇字程度です。
二 挿入する写真・図・表の分量にあわせて、文字数を調整します。
(例えば、写真一枚載せると、一ページあたり一、五〇〇字程度になります。)
三 余白は上・下・左・右 二十㎜、縦書き三段、文字数は二十字、行数は二十八行、
文字の大きさMS明朝十・五ポイントです。
●文体・表記
一 文体は、「です・ます」調を原則とします。
二 年月は、元号表記とします。(平成○十○年)
三 単位記号は、記号を用いて下さい。(㎜・㎝・㎞・㎟・㎠・㎡・㎢・㎣・㎤・㎥・㎦)
四 数字の表記は、原則として漢数字とします。
※横書き原稿の場合には、算用数字(アラビア数字)のままでも結構です。
編集部会の方で適宜校正致します。
五 見出し番号は、「章・節・項」の順に、4 ⑴ ①のように付して下さい。
六 目次は横書きなので、算用数字表記
七①「○○インターチェンジ~○○インターチェンジ」は「○○IC~○○IC」と表記
②タイトル部は「○○IC~○○IC」と表記
③文書の中の場合は「○○ICから○○IC」と表記
④地名及び地先間の場合は「○○町から○○町間」と表記
八 「一般国道」及び「国道」の表記
①タイトル、最初の路線概要の場合は「一般国道○○○号」と表記
②文章の中の場合は「国道○○○号」と表記(一般を取る)
九 「○○ヵ所」「○○ヶ所」の場合は「○○箇所」と表記
十 「○ヶ月」の場合は「○ヵ月」と表記
十一 文章の中の「写真―1」の場合は算用数字(アラビア数字)表記
十二 年の表記は和暦表記を基本とするが、西暦表記の場合は「二〇一五年」と表記
十三 年月日の和暦表記の場合は「平成○十○年十○月○十○日」と表記
十四 数字の表記の詳細規定
①二桁国道の場合は「国道○十○号」 → 「国道四十号」「国道三十六号」と表記
②三桁国道の場合は「国道○○○号」 → 「国道二二七号」「国道二三〇号」と表記
③二桁の数字の場合は「○十○」 → 「十四」「二十三」と表記
④三桁の数字の場合は「○○○」 → 「一〇〇」「二三四」と表記
⑤四桁の数字の場合は「○○○○」 → 「一、〇〇〇」「二、三四五」と表記
⑥金額の場合は「一二〇〇〇円一二銭」 → 「一二、〇〇〇円十二銭」と表記
⑦二桁及び三桁の数字で、規制速度「○○㎞」時速「○○㎞」温度「○○℃」確率「○○%」降雨量「○○㎜」の場合は「一〇」「一〇〇」「二三」「二三四」と表記
⑧単位の場合は「二・三KN/m2」 → 「二・三KN/㎡」と表記
以 上
二〇一五年十月 作成
二〇一六年十月 第一回改定


