郷土史 空撮写真から見る根室本線旧線(通称狩勝線)

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郷土史 空撮写真から見る根室本線旧線(通称狩勝線)

URADOHeimatkunde>空撮写真から見る厚賀の変遷

空撮写真から


(出典:国土地理院 国土変遷アーカイブ)
1944年(昭和19年)

厚賀トンネルの周辺の変遷状況を航空写真でまとめました。

まず「厚賀」の地名の由来ですは、かつての「厚別村」と「賀張(がばり)村」の境に当たるため、双方の頭文字から採用された合成地名です。

1944年、昭和19年ですから、太平洋戦争の末期です。

(仮称)厚賀IC建設予定地付近には、すでに農地が広がっており、農地東部・西部には樹林地が苫小牧方面に連続していました。

★海岸沿いの日高本線の前身である日高拓殖鉄道は1924年(大正13年)に開通しており昭和18年より国有化され日高線に改称しています。

★駅の付近から現在の比宇厚賀停車場(ひうあつがていしゃじょう)線沿いに集落が一部点在しているのみであり、宅地開発等はほとんど行われていませんでした。

★現在の国道に架かる厚賀橋はまだ無く、厚別川を渡るルートはこのようになっていました。

(出典:国土地理院 国土変遷アーカイブ)
1971年(昭和46年)

約30年経過しまして、1971年、昭和46年です。

★海岸沿いに浦河国道が設置され、 ★現在の国道に架かる厚賀橋は、昭和39年に架橋されています。 その周辺に徐々に宅地が建設され始めました。

厚賀IC建設予定地付近の農地西部にあった樹林地や厚別川沿いの地域が開拓され、徐々に農地が広がり始めました。

(出典:国土地理院 国土変遷アーカイブ)
1983年(昭和58年)

さらに、12年経過し、1983年、昭和58年です。

厚賀IC建設予定地付近の農地東部にあった樹林地も開拓され、農地が広がり始めています。

またこの頃には、ほぼ現在に近い土地利用形態となっています。

出典:Yahoo!地図)
2013年(平成25年)

2013年(平成25年) ・周辺の樹林が減少し、農地が増えていますが、大半は牧草採取地です。

(仮称)厚賀トンネル開通後、(仮称)厚賀ICが建設されたあとの、土地利用形態の変化に関心が湧き上がります。

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参考リンク

  
(1)

 狩勝峠特集: 東北海道鉄道撮影地ガイド+鉄音

今日の壱枚 – NPO法人 旧狩勝線を楽しむ会

秋の狩勝峠を撮影 〜秋の北海道遠征その3〜: § rWeb LOG

GNR – JR 北海道根室本線旧線【新得~狩勝峠付近】

この記事を書いた人

2010年3月まで、北海道の「オホーツク地方」に勤務。2010年4月「日高優駿浪漫街道」沿線に転勤異動。2013年4月千歳市に転居。水のあわない仕事を渋々している。早く株で儲けて株式の配当金と家賃収入で所得を得、仕事を辞め”不労者”になるのが夢。こよなく苫小牧を愛し住宅ローンを返済中(T_T)  最近、花粉症になったみたい。
えらく気に入っている言葉は"刻舟求剣"である。(意味は知らない)
M3を買うのが夢のまた夢!!だったが、2023年に住宅ローンを一括繰り上げで完済したことから、MモデルのM2を手に入れたので夢はかなった。めでたし、めでたし。あとは退職するだけ(^o^)

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