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郷土史・空撮に見る時層

  • 2019年7月10日
  • 2022年10月5日

映画館~ブラタモリ~

792 ■映画館~ブラタモリ~ パイロット放送2008年 放送日 サブタイトル[※ 5] 使用した古地図 2008/12/13 原宿(表参道) 江戸後期東都青山絵図 第1シリーズ2009年から2010年 回数 放送日 サブタイトル 使用した古地図 1 2009/10/01 早稲田 明治16年測量 東京五千分一図(早稲田村) 2 2009/10/08 上野 東都下谷絵図、明治25年東京全図、昭和36年最新東京大全図(上野) 3 2009/10/15 二子玉川 大正13年大日本職業別明細図(川崎市立高津図書館所蔵 / 二子玉川周辺地図) 4 10/22日 銀座 蔓延江戸図,江戸切絵図 近江屋板(嘉永6年改正版),「京橋南芝口橋築地銕炮洲邊繪圖」 5 11/12日 三田・麻布 東都麻布之絵図、芝三田二本榎高輪辺絵図 6 2009/11/19 秋葉原 明治28年東京市神田区全図 7 11/26日 日本橋 万延江戸図 熈代勝覧(きだいしょうらん)〔作者不詳?文化2年頃〕 日本橋北内神田両国浜町明細絵図 8 12/3日 本郷台地 無し(使用したものは地形図) 9 12/10日 品川 芝三田二本榎高 […]

  • 2016年11月17日
  • 2022年10月21日

郷土史 空撮写真で見る浦河の変遷(堺町ターゲット編)

782-003 20150516公開、20161117変更 空から見る浦河の移り変わり ~空撮写真で見る郷土の変遷~ 作成:どんぐりかいぎ実行委員会 PowerPoint PAGE-01 PowerPoint PAGE-02 PowerPoint PAGE-03 PowerPoint PAGE-04 PowerPoint PAGE-05 この写真に写っている、昔、すぐ海だったのがわかる ものはどーれだ! (挙手を求める)(※画像はすぐ切り替えない)◆ PowerPoint PAGE-06 PowerPoint PAGE-07 PowerPoint PAGE-08 PowerPoint PAGE-09 PowerPoint PAGE-10 PowerPoint PAGE-11 PowerPoint PAGE-12 PowerPoint PAGE-13 PowerPoint PAGE-14 PowerPoint PAGE-15 PowerPoint PAGE-16 PowerPoint PAGE-17 PowerPoint PAGE-18 PowerPoint PAGE-19 PowerP […]

  • 2015年10月16日
  • 2022年10月5日

郷土史 苫小牧東高校の清水町の校舎

782-004 郷土史 苫小牧東高校の清水町の校舎 URADO>Heimatkunde>20150516公開 空から見る苫小牧東高校の移り変わり 作成:D社A氏Googleで確認できる最古の写真は2002年でした この校舎が我々が通っていた頃(1980~1982年)と同じ校舎です ■全校生徒数は我々の時代に比べ40%近く減ったことになります (1350人→840人)・・・びっくりです・1990年(H2):45名/学級 定員1名減・1993年(H5):43名/学級 定員2名減・1995年(H7):40名/学級 定員3名減・1997年(H9):1学年9学級 1学級減・2000年(H12):1学年8学級 1学級減・2002年(H14):1学年7学級 1学級減・2003年(H15):新校舎着工 PowerPoint PAGE-01 2002 年 5 月 2 日 旧校舎(赤枠) PowerPoint PAGE-02 2004 年 9 月 旧校舎(赤枠)から新校舎(青枠)への移行期 PowerPoint PAGE-03 2009 年 10 月 旧校舎を取り壊し、新校舎(青枠)のみに 関連情報 北海 […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「堺町」の資料

783-002 堺町小学校 堺町小学校 堺町小学校(杉本貢校長) は、昭和三0年四月三日開校しましたが、 開校に至るまでの道のりには長いものがありました。旧兵合に海外引揚 者の受人れが始まった終戦直後の昭和二O年、西口有平(商店経営)が 主明し、有志六名が実行委員になって、旧兵舎を校舎に改造し小学校を 設世してほしいと町当局に働き掛けましたが、実を結びませんでした。 ついで、昭和二五年、堺町小学校(仮称)建設促進委員会(服部重雄 会長)が結成され、その二年後の昭和二七年一O月、教育委員会制度発 足に伴い、初めて行われた浦河町教育委員選挙に服部重雄会長を立候補、 当選させて建設推進運動に大きな弾みをつけました。 樺太や満州などからの引揚者が増え公営伶宅が次々に建設されて、急 激に人口増加がすすむ堺町。小学校設置の声がいよいよ高まりました。 長年の運動の結果、昭和一ニO年四月、待望の堺町小学校が開校しまし た。しかし、校舎がありません、完成するまでの間一、二、五年生は浦河第一中学校で。三、四年生は浦河小学校 と浦河公民館で授業を行ないました。校舎の変遷一一月に完成。新校舎で授業が行われまし […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「厚賀町史」第十章 古老の追憶

783-001-10 第十章 古老の追憶 八十年の生活に拾う 美原(故)山本勝三郎  私の父は明治四年に淡路の稲田藩一族と共に静内に移住し、開拓に従事していましたが、与えられた土地が狭く、厚賀に行くと広い土地があるというので、二十年間の静内の土地を譲り、当事の赤無に再入植したのでした。それは明治二十五年のことで、家族は八名、私は十歳でした。土地は山本森太郎さんの跡地をもらったのです。当時は一面の葭原で、湿地帯で茅や野地坊主が多く、開墾は排水路造りと併行して進めなければならなかったのです。しかし他の開拓地のように大樹の伐木、抜根作業の必要がなかったこと既に拓いていた土地には直に三頭曳のプラオの使用が出来たことと土地は肥沃で反当大小豆は四~五俵もとれたことは恵まれていたと云えましょう。土地は書類を出せば(開墾さえするなら)幾らでも買えたものです。収穫した大小豆は、江差の買出人が「段付け」をして買いに来ましたが、小豆が四円五十銭、大豆は二円八十銭から三円位であったと思います。 主食は「こきび」で、米は薬用みたいなもので貴重品でした。本式の稲作りは大正十年と思います。翌年大水害で、灌漑溝も田も […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「厚賀町史」第九章 各地域の郷土史

783-001-09 第九章 各地域の郷土史 ◎東川  明治四年八月新冠の管轄が稲田邦植から開拓吏に移った時の引継ぎ書に伝えると、元神部、受乞には十五戸、七五名のアイヌ人が居住していた。幕政時代からこの数には変りはなかった。 明治五年新冠御料牧場の設置に伴い、現在の東川、共栄共に厚別川の縁近く迄その用地に編入されたため、明治三十年前後迄には和人一人も居住していなかった。 淡路より田村廉蔵が明治十七年三月に東川の川向いに当る門別町豊田のオバウシナイ沢に移住。明治四十年頃までこの地にいたという。暫らくして後、赤無橋まで道路が出来上り、橋の上手に丸木舟による渡船場が出来た。管轄のためか無料であった。商品を購入するには静内、門別まで出かけたという。 ◎アイヌの生活  その当時までアイヌは酋長ウサムクリを中心にして畑には少量の稗と野菜を栽培して生計を営んでいた。稗の収穫方法は穂ちぎりて、高床四囲は丸太草葺小屋に之を貯蔵し、臼で手つきして精白にした。道路全然なく、川べりや河原を歩いた。川縁の柳原を除いては直径一m以上もある大木が主で割合見通りよく、熊を見かけることは殆んどなかったという。 ◎東川地 […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「厚賀町史」第八章 学校

783-001-08 第八章 学校 第一節 小学校  厚賀小学校々歌 作詞 古関吉雄 作曲 福井直秋一、朝日に映えて そびえ立つ 日高高嶺の 空目ざし 願いも熱く 身にもえて 飛ぶよ若鳥 翼はり二、厚別川の 波きよく 光きららに ゆれおどる 足なみ軽く 岸ゆけば はしる若魚 元気よく三、希望は花と 咲きかおり 心ひとつに はげみ合う 厚賀の子等に うたう歌 広い海原 越えて飛べ ◎厚賀小学校沿革の概要 明治二九年十一月三日 故山本森太郎氏等が中心となって、部落有志と相はかり、小学校創設の運動にのりだす。明治三十年七月二一日 厚別村字ハイス(現在の厚賀町、松井栄菓子店裏浜)に、故山本森太郎氏の倉庫(漁場番屋)を借り受け、造作を施し、仮校舎として授業を開始した。これが厚賀小学校の創立であり、以後この日を開校記念日とし今日に至る。当時は公立門別尋常小学校厚賀分校と称し、修業年限は三ケ年。通学区域は厚別、賀張、慶能舞(現在の清畠)にまたがり、児童数二五名、教員一名であった。明治三二年五月三一日 修業年限は四ケ年に延長された。明治三二年六月四日 厚別村字モユサ(現在のすずらん公園下)に新校舎落成 […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「厚賀町史」第七章 社寺・墳墓

783-001-07 第七章 社寺・墳墓 第一節 神社  村社 厚別八幡神社 祭神は八幡大神を祭る神社沿革によると 遂年移民ノ増加スルニ 我国民ノ特性トシテ鎮守ノ神ヲ奉斎シ 以テ居民ノ帰向ノ中心タル神社ヲ創設シ、神護ヲ得、海陸ノ開拓ニ努力セザルベカラズノ儀ヲ生ジ、明治三四年九月十五日現今ノ地ヲトシ、神殿ヲ創設祭祀シ(以下略)とあり、厚別八幡神社と公称したのである。 御神体八幡大神は、小田平左エ門が明治三三年に郷里福井県大野郡の八幡神社の御神体ノ分霊を勧請拝授して奉村したものである。当時神殿もなく、海馬沢イソメイクが一年間祭祀したといっている。翌三四年に村民に相計り若干の寄附を以って厚別字ハイス(現北厚教会裏山)に山本森太郎が土地を寄附して建坪三坪余りのささやかなる社殿を建立。此処に御神体を奉遷し、爾来約五六年間鎮守の森として村民の崇拝となったのである。 爾来神社の維持祭礼は村民一致奉讃して来たが、大正九年一月に一致会総会に於て、神社の氏子総代を選挙することとなり、北村久吉、山口初太郎、古川弥平、中村乙松、小田佐衛門五名が総代となり、中村乙松は昭和初代より昭和十三年十二月故人となる迄奉讃 […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「厚賀町史」第六章 保安・衛生

783-001-06 第六章 保安・衛生 第一節 保安  厚賀警察官駐在所 当村に駐在所が設置されたのは、明治二九年四月で門別警察署から派遣駐在し、生命、財産の保護、犯罪の防止に当っておった。以前は静内警察署の受持区域であったが、奥地が開発されて区域が広くなり、諸種不便多くここに今の町民会館跡に駐在したのである。 大正十一年七月今上陛下(現陛下)が新冠御料牧場に行幸の折、新冠町の武田延蔵が『駐在所を建築するなら土地を厚別村へ子孫に至るまで無償で提供する』という一冊あって、村民の寄附により建築し、維持は一致会で負担し後年の門別町へ移管した。 昭和十二年六月に厚賀駐在所と改称し、昭和二三年、警察制改革により、国家地方警察門別地区警察所厚賀巡査駐在所となる。再度二九年、六月に警察法が改正、北海道札幌方面門別地区警察署となり、同年十二月十日厚賀巡査部長派出所設置さる。四三年四月一日で部長派出所改め厚賀警察官派出所となる。翌四四年四月一日には厚賀警察官派出所を厚賀警察官駐在所となって現在に至っている。 現在は衛生、火防等は夫々保健所、町役場等に所轄となって代って交通取締りという重大なる職責となっ […]

  • 2015年10月8日
  • 2022年10月6日

郷土史「厚賀町史」第四章 産業

783-001-04 第四章 産業 第一節 農業  農業発達の叙述 明治二〇年山本森太郎が豊田に入植し農耕に従事したのが最初である。(現古川博附近)当時の地帯は古川繁雄から浜本俊則間は茅原で姉川儀一から戸川長平迄が灌木及び茅原であり、川原寄りは森林地帯であった。二五年には山本勝三郎が入地し、引続いて川島徳一、古川弥平、堤某が移住して来た。一方美原に於て明治三一年に小田平左エ門、田端徳左エ門、田中善戒等が福井より入植し、一面茅、タコツぺ原の生い茂る未開の地に不撓不屈の信念に燃えて開墾の鍬を打込んだのである。遂年夫々の地域に入植者の増加により急激に開墾も進み、道路の開通、排水溝等献身的努力を傾倒し、以って本村農業の向うべき姿を示したのである。明治末期の開墾面積は約二十町歩というが、実に尊き血と汗の結晶と思うと粛然として襟を正すのみである。 耕作地の一つとして旧局舎前から浜賀張(コマチップ川)間が一面畑で燕麦を作付けしたという。収獲後は草競馬、運動会を行なう。地理的に於ても絶好の場所であり、その前方には小高き砂丘あり。『浜ナス』の花が咲き乱れその下方二〇米が海岸であった。現在我々は当時の姿を […]