郷土史「厚賀町史」第七章 社寺・墳墓

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第七章 社寺・墳墓

第一節 神社

 村社 厚別八幡神社 祭神は八幡大神を祭る
神社沿革によると
 遂年移民ノ増加スルニ 我国民ノ特性トシテ鎮守ノ神ヲ奉斎シ 以テ居民ノ帰向ノ中心タル神社ヲ創設シ、神護ヲ得、海陸ノ開拓ニ努力セザルベカラズノ儀ヲ生ジ、明治三四年九月十五日現今ノ地ヲトシ、神殿ヲ創設祭祀シ(以下略)とあり、厚別八幡神社と公称したのである。
 御神体八幡大神は、小田平左エ門が明治三三年に郷里福井県大野郡の八幡神社の御神体ノ分霊を勧請拝授して奉村したものである。当時神殿もなく、海馬沢イソメイクが一年間祭祀したといっている。翌三四年に村民に相計り若干の寄附を以って厚別字ハイス(現北厚教会裏山)に山本森太郎が土地を寄附して建坪三坪余りのささやかなる社殿を建立。此処に御神体を奉遷し、爾来約五六年間鎮守の森として村民の崇拝となったのである。
 爾来神社の維持祭礼は村民一致奉讃して来たが、大正九年一月に一致会総会に於て、神社の氏子総代を選挙することとなり、北村久吉、山口初太郎、古川弥平、中村乙松、小田佐衛門五名が総代となり、中村乙松は昭和初代より昭和十三年十二月故人となる迄奉讃し、引続いて中村精二が現在に至る迄総代となっている。大正十四年一月総会により、八幡神社昇格手続が万場一致承認され、神社昇格に伴い拝殿新築が可決し、建築委員六名を選挙し委員長は池田直次郎を推挙、委員は田端年松、今三次郎、浜本安次郎、山本勝三郎、坂東岩之助となり、同年秋には立派な拝殿が完成され、祭典は春秋二回とし余興は秋季九月十五日一回のみに止ることし、当番は市街八名、山部落六名、賀張三名で交代に出ることに決定された。昭和九年五月に神社敷地無料附与されたるを機として敷地切り下げ及び、本殿を拝殿迄下ることになり村民一致奉仕して之を安置した。 翌十年神社の整備一層熱望され、神社の神殿拝殿改造及び石段新築が、工費壱千円也(一般寄附)で之が完成され、一段と壮厳さを増したのである。引続いて翌年からは境内に植樹が始り、背後には樹木が囲繞し、眼下には太平洋を望見する風光明眉なる神域の尊厳益々顕揚されて来たのである。昭和二十年三月に村社として認可され、総代には森永新耕、山口初太郎、山本滝平、中村精二となる。特に戦時中は夫、息子の祈願に或は村民挙げて国の勝利に朝夕足を運んだものである。
 爾来戦後国の開発が進み、日高路も改良になり、昭和三六年神社所有地を道路敷地として開発に買収されることとなり、町有地の一角即ち現在地すずらん公園に移転改築され、同年十月十五日に盛大なる遷宮祭を町民挙げて行事を行なったのである。幸いこの移転地は町民の憩いの場とすべく特に桜を植樹し桜花の下に春の一日を楽しみに有志ある人々を先頭に町民の奉仕を春秋に渉って行なって来た。設置されるや年々美化を計り境内は一段と完備され、之に加うるに昭和四八年門別町百年記念行事の一環として公園は整備されたのである。今後我が町民は敬神の誠を以て八幡神社を守護し、松の香りと共に桜花咲き乱れる荘厳な神域となり、益々顕揚されることであろう。
 宮司 初代 小野寺貞雄 二代 小野寺慧
 賀張金昆羅神社 祭神 金昆羅大権現
 賀張開漁の祖、星野権蔵は海上安全、大漁満足の神である金昆羅大権現様を当地に祭祀しなければならないという崇厚の信深く『サヌキ』の金昆羅神社の御神体の分神を拝受帰郷したのが明治四一年であった。当時一坪余りの神殿を(現在宮腰彦松裏手)に建立し安置した。明治四五年十月に官地を借用して村民の寄附によって三坪余りの拝殿を新築して漁民の守護の神として約六三年間奉讃して来たのである。昭和三六年に国道移転改良により高台に移転したが、雪解の水害により石段等破壊され、且つ国道横断のため甚に危険であり、ここに四九年秋に再度移転を決定し、築港横の広場に選宮したのである。賀張町民は勿論特志の浄財を賜り工費五五〇万円によって立派に完成され、同年九月二五日、盛大なる祭典を挙行した。
 惟うに今日に至る迄遭難等の大惨事もなく、豊漁にめぐまれたる月日を送らせていただいていることは誠に感謝にたえなく、愈々敬神の信深くして魚業の発展を祈願したいものである。

第二節 寺院

 松兼寺

名称 曹洞宗
寺格 準法地
本尊 釈迦如来 脇侍 道元禅師、栄山禅師 観音三三体
 沿革 山口県徳山に松兼寺第二三世志山鉄英師の一子志山正道は前途有望なる青年僧にして、昭和四年希望に燃え民衆教化のため単身渡道し、日高地方巡教の因縁により現在地に錫杖を下す。時に若干二六歳であった。爾来日夜托鉢三味の行を重ねて昭和七年四月に十一坪の草庵を建立したのである。同一二年三月設教所設立認可を受け、一意専心法務に励み同信を得て同二九年二月寺号公称を本山より授与されたのである。ここに檀信徒の協力によって本堂の増改築又は位牌堂建立等一応諸堂の完成を見るに至ったが、風雪に耐えられなくなり、三五年頃より本堂建立の発願を志したが、突然遷化されたのである。行年 歳であった。惜しみても余りあり僧の一生は身を以って修行に徹した禅師であった。同年九月第三世志山昭道師が住職に就任し、以来檀徒、総代、世話方と相計り、先住職の意志を継承し本寺建立に邁進したのである。
 昭和四六年五月檀信徒一同の努力を賜り、いよいよ本堂工事の基礎工事に着手する運びとなり、翌年七月末に法堂及び庫裡完成(七三坪)を見るに至った。同年十一月二十余名の僧侶の参集によって盛大なる落成慶讃法要を修行することが出来たのである。
 引き続いて四九年九月には位牌堂兼納骨用祠堂殿の建立に着手し、同五十年三月に完成した。諸堂総坪数五八坪余りとなる。

 弘専寺

名称 浄土真宗 高田派
寺格 院家二等
本尊 阿弥陀如来 見真大師画像、聖人画像、聖徳太子画像、七高僧画像、開山大師一代記画像、永代法名二幅
 沿革 明治末期より移住者が増加の一途をたどり、ここに於て寺院を設置しなければならないという福井県より移住したる高田派門徒等が札幌高田派別院へ具申した結果、時の輪番井上舜教師が代理者を派遣することになり、別院勤務の隆 教誠師が大正四年四月一日付で初代住職として着任したのである。師は三重県河芸郡合川村出身で若干二三歳であった。
 当時御本尊は三輪増太郎宅の一室を借受けて安置し、御給仕致していた。而して門徒一同協議して本堂建築の必要を認め、創立総代小田平左衛門、田端徳左衛門、森永秀蔵三名の外十数名の委員に依って門信徒の協力を賜り、大正四年十月に現在地に竣工を見たのである。大正五年四月付にて本山より設教所の認可あり、爾来師は小駆であるが名布教師で寺門興隆に専念する処、法灯を慕うる善男善女漸く多く数うるに至った。然し初志貫徹果さず突然帰山することになったが、師が僅か七年の教化は誠に大なるものがあった。時に大正十年春である。長命され昭和四八年春自坊に於て往生したのであった。
 大正十年五月二代住職として着任したのが権律師朝妻慈善である。師は新潟県西蒲原中野小屋村出身で、大正六年四月渡道。札幌西別院勤務し、同年十一月より小樽東雲町高田派説教所に当地へ着任まで法務していたのである。大正十三年三月寺号公称し弘専寺と号す。
 ここに於て檀信徒と相計り画期的なる梵鐘鋳造を打出し、現在地に於て小屋を組み、寄進の品々を鋳き出来上る。同年八月その落慶法要を厳修したのである。梵音は山野四方に朝夕響き渡る。昭和四年には宗祖大師六百五拾回御遠忌と創立十五周年記念大法要を執行した。昭和十七年春、約二十年間心の糧となりし梵鐘も、風雲急を告げる大東亜戦争に献納したのであるが、戦後二三年には再度梵音は鳴り出したのである。
 昭和三十年頃より本堂、庫裡腐朽加うるに狭益、再建の声高く一同協議の結果、森永新耕委員長となり、谷崎亀松会計委員十数名を挙げ、建築費約三五〇万円を一般門信徒の浄財と営林署の特殊材の払下げを以て三三年秋より労力奉仕により基礎工事に着手、翌年七月再建完工を見るに至った。当時大工費六〇〇円という。翌三五年四月入仏式を執行したのであった。二代住職として四十年一意寺院の興隆に専念し、且つ敬信崇祖の思想涵養、人心の導化、善行美俗の順致等に尽力したが、三五年十二月十六日悼しくも行年六七歳を一期として入寂したのである。本山より存世の功労に対し二階級特進し権中僧都を贈らる。
 同師の嗣子勝衛が第三代住職となり今日に至っている。

 天理教北厚分教会

祭神 天理壬ノ命
 沿革 北厚の名称は坂井きわの名儀であり、北厚の初代所長である。初代は淡路三原分教会二代会長坂井忠七の姉で、北海道布教は明治三九年八月に渡道し厚賀町豊田に入り単独布教に専念したのであったが古川はつ姉の信仰の協力によって共に門別から三石村に至る迄従事したのである。当時は古川弥平隠居所を教会に寄附して初めて北厚宣教所の神殿となる。(六二坪)
 大正四年二月に北厚宣教所設置の認可を受け、門別町字厚別番外地に設置し、初代所長坂井きわとなる。同時に地方庁の許可あり神殿増築する。
 大正七年六月初代所長の開教の熱意と古川弥平夫妻の信仰により信徒も多くなり、古川喜三郎二代所長に後任を托して坂井きわは淡路の三原に帰山されたのである。
 大正十年一月な名称改称の許可あって、今迄は天理教高安大教会北厚宣教所であったが、天理教高安大教会、三原支教会、北厚宣教所と改称する。
 大正十四年豊田が交通その他不便なので現在地(厚賀町七六番地)へ移転改築し今日に至っているのである。二代所長として古川喜三郎は勿論布教に専念。温厚篤実なる師であり、一致会長は長期に渉り、よく町民を善導し、地方開発子弟の教育に尽瘁され、又多くの公職を歴任し町の発展の尽した功績は大なるものがあり、昭和二六年七三歳で没したのである。師を知る人々がその徳望を永く讃えるため頌徳碑を二七年に建立した。師の逝去により、六女古川つねが三代会長として就任したが、結婚により昭和二八年古川隆徳が四代会長として現在に至っている。
 昭和四三年に教会建物老朽甚しく、且つ低地にて水害も多く、ここに信徒一同の協力によって神殿及び教職舎を移動、新築したのであった。
 現在部内教会二ケ所、布教所一ケ所あり、天理教平取分教会(平取町荷菜)天理教高三分教会(三石町本桐)天理教北新布教所(新冠町共栄)

第三節 墳墓

 豊田墓地 和人開拓以前はアイヌ民族がコタンに住み、その墓地は現在豊田(旧オサチナイ墓地)にある墓地に埋葬して居ったのであるが和人入植後も同墓地を使用して居った。町有地で一四九三坪の広大なる墓地である。
 厚賀墓地 移住者が増加するにつれて死亡も之に加り奥地故不便であるため、現在地即ち厚賀墓地が大正初期から賀張村と共有地として使用して居ったようである。大正十一年一致会総会に於て、厚別及びオサチナイ墓地を整備実行することに決議された。その内容は
一、墓地所有者ヨリ一戸二付、金壱円宛ヲ醵出スルコト
二、将来墓地使用スルモノヨリ金壱円宛醵出スルコト
三、右金銭ヲ積立テ墓地整理ニ要スル一切ノ費用ニ充スルコト
四、墓地委員ヲ選考ス、左ノ者ノ如シ 六名ナリ
 阿部寅吉、小沼万次郎、中村乙松、古川喜三郎、森永秀蔵、吉原安次郎
 任期は四年として終戦時迄実行されて来た。
 処が現在は火葬場も設置されて居るが、昭和二三年に町民の寄附により建坪三四坪が完成されたのであるが、それ以前は土葬か露天火葬であり誠に仏様に対し申訳なき次第であった。然し昭和十一年七月には火葬場設置に関し香典返しを廃して応分なる醵金をなし、実行委員会が保管し何年後にか設置すると決議されたというが、なかなか至難であったのである。
 又現今は乗用車で墓地まで直行出来るのであるが、近年迄今の鉄道踏切りのところを四人でかついで、前にロープを付け引張り、後からは押すという誠に難儀したものである。(一名称はガンケ坂という)
 雨天の時はそれは言語に絶するもので、見送人は『ヒツギ』が見えなくなるまで故人を偲んだのである。その墓地道路を春秋二回に渉って補習し、村民は汗を流したのである。
 この厚賀墓地は眼下に太平洋を又遠く白煙たなびく樽前山を望見し得る絶好の地にて、終焉の人生を煙となって立ち昇っていくこの霊園も、近々に統合されるであろう立派な火葬霊園場を設置されることを望むものである。  厚賀墓地は昭和三一年六月二八日所有権を門別町に移譲す。
面積 五五一坪

この記事を書いた人

 2010年3月まで、北海道の「オホーツク地方」に勤務。2010年4月「日高優駿浪漫街道」沿線に転勤異動。2013年4月千歳市に転居。水のあわない仕事を渋々している。早く株で儲けて株式の配当金と家賃収入で所得を得、仕事を辞め”不労者”になるのが夢。こよなく苫小牧を愛し住宅ローンを返済中(T_T)  最近、花粉症になったみたい。  えらく気に入っている言葉は"刻舟求剣"である。  M3を買うのが夢のまた夢!!

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