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第六章 保安・衛生
第一節 保安
厚賀警察官駐在所 当村に駐在所が設置されたのは、明治二九年四月で門別警察署から派遣駐在し、生命、財産の保護、犯罪の防止に当っておった。以前は静内警察署の受持区域であったが、奥地が開発されて区域が広くなり、諸種不便多くここに今の町民会館跡に駐在したのである。
大正十一年七月今上陛下(現陛下)が新冠御料牧場に行幸の折、新冠町の武田延蔵が『駐在所を建築するなら土地を厚別村へ子孫に至るまで無償で提供する』という一冊あって、村民の寄附により建築し、維持は一致会で負担し後年の門別町へ移管した。
昭和十二年六月に厚賀駐在所と改称し、昭和二三年、警察制改革により、国家地方警察門別地区警察所厚賀巡査駐在所となる。再度二九年、六月に警察法が改正、北海道札幌方面門別地区警察署となり、同年十二月十日厚賀巡査部長派出所設置さる。四三年四月一日で部長派出所改め厚賀警察官派出所となる。翌四四年四月一日には厚賀警察官派出所を厚賀警察官駐在所となって現在に至っている。
現在は衛生、火防等は夫々保健所、町役場等に所轄となって代って交通取締りという重大なる職責となって警察官も多忙であるが、町民は駐在さんにまかせて、安心して日夜日暮し出来ることは、喜ばしいことである。 消防団 国道が開さくされ、入地者も次第に定着する者が多くなり、市街地も繁昌してくると自然と防火について考慮することになり、本町におくれて明治四二年門別火防組第三部として誕生し、六坪程度の物置とその中に独自片手押ポンプ三~四個の消火器のみが置かれた(現在会館地)大正四年に本町に於ては公立消防組が認可されていたが当町にはなく、大正十二年に遠藤善蔵が消防組の必要性を説き、自ら私設厚賀消防組の発起人となって尽力し、ここに厚賀消防組が小型手押腕用ポンプ一台を常備して発足したのである。初代組頭として遠藤善蔵が任じた。
昭和二年に村当局に移管して門別消防組第三分団となり、公設認可団員三四名となった。昭和三年には村民の寄附により消防番屋(二〇坪)が新築落成を見るに至り、翌年には更に森田式腕用ポンプ一台を購入することが出来て一段と消火に偉力を発揮するようになった。服装は刺子半纏姿で、テキパキとした軍隊式の統卒されたもので、住民は特に信頼感を以って消防に協力したものである。昭和三年には訓練出動が敏速且団結していたので金馬簾一条を使用認可され、昭和七年七月三十日には火災に際し、その出動、責任、任務の遂行の大なるにより金馬簾二条使用認可されるに至って益々団員一同誇りを持ち、村民を火災から守る意欲に徹し邁進したのであった。
昭和十二年日支事変から大東亜戦争へと国内が戦時態勢に入ると、門別警防団と改組され、水防、消防は云うに及ばず、警備防空の任務を持たされた。特筆すべきことは当町沖に於て昭和二十年四月十九日に軍用船大成丸沈没については、生存、戦死者の処置等に至っての、警防団員による協力は絶大なるものがあった。
終戦となって警防団は解散(昭和二一年)し、門別消防団を結成し、常備部を設け三分団制をとり、厚賀第三分団となった。
昭和二二年に公布された消防組織法は、消防史上空前の大改革で消防の一切は警察機関から分離独立して自治体に委任せられることとなり、昭和二四年からこの改正法により新発足した。昭和三六年に旧消防番屋を解体し厚賀消防会館(六九坪)が新築落成を見ると共に日産六八〇型消防車が新増車され、急速に一段と消防組織が充実され、昭和四八年四月一日付より消防名も日高消防組合門別消防団第三分団、又日高西部消防組合厚賀分遣所となって発足したのである。
◎消防自動車の整備状況
・開設時 独自手押腕用ポンプ三~四個
・大正十二年 小型手押腕用ポンプ一台
・昭和四年 森田式手押腕用ポンプ一台(村民の寄附)
・昭和十六年~二三年迄 消防自動車前川号第一分団より借車
・昭和三六年 豊田(タービン式)消防ポンプ一台(半分村民寄附)
・昭和三八年 日産六八〇型消防車一台
・昭和四三年 豊田ジープ車一台(豊田ポンプ廃車)
◎消防後援会長
1遠藤善蔵 2中村乙松 3藤林良助 4中村精二 5高橋春松 6以西梅男 7石塚兼治(現在)
◎歴代各団長
・消防組 初代 遠藤善蔵 二代 阿部鉄三 三代 矢島清吉
・第三分団 初代 中川為次郎
・警防団 初代 中村精二
・門別消防団第三分団 初代 小野長雄 二代 浅山真直 三代 岸本典六(現在)
第二節 衛生
開拓或は開漁作業に急なるため当時の一般衛生知識に世論も重きをおかず、個人の病気は富山の買薬の置き薬、或は薬草で事足らして居ったものであろうと推察する。又食事も粗末であって病気も少なかったもので、その重労働と過労、衛生知識の不足、治療の手おくれ等はあったに違いない。
開村以来もし病人の出来た時は、門別か静内の医院へ徒歩或は乗馬又は馬車に病人を乗せ診療をうけに通ったものである。特に現東川山奥の人々の苦労は絶するものがあったと思う。幼児が病に冒されれば母親は可愛い我が子のため幾里の道を遠しとせず歩いたであろうし、年老いた親が悪ければ若者は馬車で『ゴトゴト』と往復したに違いない。勿論重病人であれば入院したことだろう。
斯様な状態で非常に不便と苦しみを味わった人々がここに医師を迎えようと村民一同運動し、明治四四年当時苫小牧病院の副院長として居った有馬猛吉先生を迎え当村に医療を開始したのが初めてである(現小沢伊之助附近)当初は坂東商店の一室で仮診療し、池田直次郎、中村乙松が土地を寄附して病院を建てた。
医院 有馬先生は医術は抜群で、日夜を問わず病人の治療に専念され、遠く山間の地まで足を運んで下された苦労に対し村民は感謝の外なかった。大正十五年に札幌へ転出することとなり、後任に比企先生が着任。三年頃まで長崎平三郎先生、朝広先生が短月医療をして下さったが、昭和四年に小野貞樹先生が着任され戦後二四年に小樽へ転出するまで実に二十年間長期に渉って診療に従事して下さった。先生は内外科を問わず卓越せる医術を施し、特に終戦時の大成丸遭難時の活躍は賞讃に値するものがあった。又夫々に公職を持ち温厚篤実にして医療一途の徳は村民に親しまれたのである。後任に若き浅間常雄先生が着任され町医としては最後の先生であり、昭和二六年九月に浅間医院として独立開業し昭和三六年に札幌へ転出されたが、早速の先生で原付自転車に乗られたのも当町としては最初である。 当初より浅間先生に至る迄の病院及附属建物は町民の寄附によって建てられ、昭和六年にすべて完成して使用して居ったという。
ここに戦後人口も増加し一つの医院としては少なく、社団法人として北海道勤労者医療協会厚賀診療所が昭和二四年八月一日付で開所したのである。(現在さくら食堂附近)加藤三郎先生初代院長として着任、特に外科の医術は見るべきものがあった。数年医療に当られて静内町へ開業された。後任に安達先生、梅津先生、内田先生等が着任されたのである。昭和三五年に現在地に病院を建築し町民の健康を守るために日夜奮斗されて居られる。
戦後遂時組合法の改正、或は医師法の改正等あって医療機関は充実され、昭和三一年に医薬分業の制度の確立となり、国民健康保険組合が発足し、町民の医療共済を目的として法令に基づき組織されたもので、強制加入制度がとられ、町民の医療費節減を計るため昭和二七年に本町に直診病院が設立。当町にも二九年二月に町立厚賀分院が設置され、現在完備された病院となっている。
尚歯科医院であるが、出張歯科医があちこちの部屋を借りて診療をして居った定着なく、昭和二五年頃から増川先生が定着し、一歯科医院として初めたが十年余りにして札幌へ転出。後任に佐々木先生が着任(三二年に)室蘭へ四五年に転出した。数年間歯科の先生なく町民は非常に不便を来し、町民の要望により四八年に出張の歯科医が来られて現在に至っている。
助産婦さんのことであるが、之又大事でなくてはならない方である。
昔は『取上げばあさん』といって無免許であるがお産を取上げて居られた方があったが、ここに昭和二年に『奈良キタノ』さんが(主人は局員)着任され、昭和二三年頃迄日夜を問わず次代を負って生命の誕生を助けて下さったのであるが、其の数は数千を越えたことであろう。後任としては堀江節子さん、鳴海さん達が数年前まで担当して居られた。
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