郷土史「厚賀町史」 第ニ章 沿革

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第ニ章 沿革

第一節 地域の状況(一般的状況)

◎位置
門別町は日高支庁の西端に位置し、当町は厚別川の西に賀張川までとし川を隔てて新冠町に接する処に位置する(厚賀町は美原豊田福籾)
東経一四二度二八分二〇秒、北緯四二度ニ〇分なり。
南一帯は太平洋に面し、東西に広がった丘陵起伏があるが山獄と称するものはなく、土壌おおむね肥沃であったが、往昔数回樽前山噴火の炉灰を被り、火山灰地が大事を占めているが、農耕に適し、水田経営をしており、丘陵は牧畜に適し、軽種馬の生産地として有名である。

◎土地
面積は四三一・二〇平方粁、山林が二九・九七八ヘクタール(六八%)耕地は四・一二三ヘクタールで全体の十%にあたる(門別町として)

◎気候
気候は北海道中に於て稀にみる温暖な地帯で、炎暑の候でも萃氏四八度内外、寒気凛冽の日といえども萃氏十度を下ることは稀であり、積雪又少なく、海岸は冬季に時に土砂の飛散するのを見るのも診らしくない。

◎市街地
市街地は役場所在地の本町と富川町、それに当町(厚賀町)とに大きく別れている。

◎総世帯数
総世帯数は戸数九三〇戸、人口三一一六人、男一五〇八、女一六一六(四十九・九末現在)

◎地域の経済状況は、日高支庁管内随一の広大なる農耕地及び林野を有し、又水産資源に恵まれ、之に伴う諸産業は近時活発な動きを見せつつある。特に森林資源は恵まれ、年々計画的に伐り出されており、その他数年前より着実に育成されつつある軽種馬生産については、日高王国の名を全国にとどろかせたことは特記するものである。
稲作は日高一であり、酪農業、浅海増殖などに大きな努力が払れている。
国鉄日高線、旅客バスが苫小牧、札幌、室蘭方面に運行され、又十勝地方へは、富川を基点に日勝線(二級国道)があり、市街地は舗装され、山奥へも同様にして昔の面影はなくなった。
地味肥沃な穀倉地帯であって、森林資源にも恵まれ、東部苫小牧工業港開発によって大工場完成後には、当町の役割、発展も大なるものがあると思う。

第二節 開拓史以前の厚賀

著名な蝦夷文献の中に、松前の地理に関して書かれた『野作地理史』なるものがあって、その中に『アツベツ』として左のように書かれている。これは享和年間(百五十数年前)最上徳内が当地を通過した際の記録であるが、短文ながら現在の市街から川淵にかけて渡守だけしか居なかった当時の状況髣髴たるものがある。
・アツベツ 此所山ニ烽火アリ当所山遠ク木アリ、川アリ、幅六・七間
此川底深シ 船渡シ夫ヨリ砂浜ユキ
(註 この烽火とは烽火台のことで、通信施設のなかった当時重大事件などが発生した場合、この烽火台に狼煙をあげ、次から次へと急を告げたものである。
   アツベツでは現在踏切の切割の上の所。モンベツでは漁業会背後の山上(アイレショマク)に、次はシノダイにあった。
   これは徳川幕府がロシヤ南下に対処するために設備したものであるが、明治初年まで一度も使用せず廃絶した。
   その後幕吏の往来も相当頻繁となったが、松浦武四郎は、厚別川流域の探検記録を左のように『東蝦夷日記第四編』に詳細に述べている。
七月六日教導四名(トレアン、ヒリカアン、イソシテカケ、ホタム)共に鞭打て到る。川筋屈曲、岸柳、赤楊、白楊多く、土肥赤く、草深きを分けて行く(西岸)モユサ(小川)ヘンケユサ(谷地)東にカマバクシナイ(小川)ケナシケクシナイ(サル土人二軒)ヲフンカルシ(畑あり)。鞦冬虎杖款形・の間を行く。満身露にぬれり。チカホマイ(小川)ホンハクツ(目)ハクツ(中川サル土人二軒、ニイカク土人五軒)西に越えてホンユク(平山)此辺木立なし。眺望よく俯せば茅野に鹿の通るを見る故号く(サル土人六軒)。 下りて赤沢(ニイカフ土人五軒)此所ヘニイカフライ教導三人(小使、イカシサンロ、イヘヒカン、サンカネ)と廻し置故大勢に成り。何さむしき事なく、鹿道をたどりたどりて上る。云々
 なかなかにはかそゆかぬ早雄鹿の千筋の道を分けわびてけり
(註 翌八日ビウまで下り、ナシアマナイから山に上り、ビホク(新冠)に向ったが、途中鹿の大群に出会ったことが左のように書かれている)
 遥向に三丁斗の間一面に赤くみる故に、彼は何と問う間に、土人弓箭を握り、走り追行、其音に今一面赤く草の枯れたるかと見し処八方に散乱するが鹿の群集りなり。其の数萬を以って算すべしと思はる……。(以下略)
この川の流域は、いはゆる厚賀ブロックの厚賀、美原、豊田、正和、三和となっているが、里平は正和の字に含まれる行政区名である。
 註(厚賀は彦根藩が支配した時、在来のアイヌ語地名に漢字をあてたもので「厚別」「賀張……浜賀張」の両地区を合併してーつとし、両頭文字を採って命名したものである)
美原、豊田は厚賀町の延長と見てよく。往昔はこの辺一帯をアツベツと称したものである。したがって部落史としてはこれらを切り離さず一連のものとして述べることとす。
昔この辺りの住人をサルンクル(日本海系)と称し、士俗学上シベチャリ以東のアイヌ人をメナシクル(十勝系)と称した。
 註 サルンクルは沙流一円から鵡川、勇払、遠くは白老、室蘭方面にまで威を張ったと云はれ、その勇武は史実にも明らかで早くから世に知られていた。
寛文八年(二九〇年前)サルンクルとメナシクルが、こゝからシベチャリ附近において一大決戦を展開。厚別川流域は文字通り死山血河となり、かの『ハヱの勇将オニビシの姉が川岸の砦の防戦で戦死したが、後これらの子孫が流域のこゝかしこに『コタン』を形づくったものである。それが今日残っている。

第三節 当町の開拓

当町は由来、雪少なく気候概ね温和、山間渓流の地は快適にして、小天地をなし、雪をさけて群集する鹿の越冬場所としては申し分なかったため、元来生活資源を河川と陸棲動物に求めた。このような地の利を得て、アイヌ人の密集部落が多かったのである。
その後、和人が海岸地帯に頻繁に往来するようになると次第に奥地へと移動して川尻周辺は淋しい処になってしまったが、最上徳内がこの地を通過したのも、又松浦武四郎が厚別川流域を探険したのもその頃のことであったろう。
明治初年この地一帯の状況が神社沿革に左のように記されている。
「明治二十年頃マデハ、在住者全部旧土人ニテ和人の如キハ僅カニ、四~五名ニシテ漸ク海岸ニヨリ生活シ、厚賀ノ昿源ハ空シク・熊ノ跋扈ニ委スルノ外ナカリレ…………(以下略)」
このように明治二十年頃までに和人で定着したのは四~五名にすぎなかったが、これらの人々で氏名の判明しているのは彦根移民(波恵、清畠賀張などに夫々分住し開墾に着手したところ不幸着業早々にして藩の領治を免ぜられ、ほとんどが引揚げ帰国した。
賀張(浜賀張、福籾の入口附近)には医師、僧侶、平民名一戸を入れた記録があるが、これは船の泊所を経営する計画であったといわれる。残留者、中村与吉が浜賀張(旧ガンべ坂附近)で牧畜、漁業を営み、かたわら旅館を経営していたのと、山本森太郎が、豊田の右川牧場(右川嘉平)の裏手に入地開墾していた位いのもので、その間にアイヌコタンが点在していたにすぎなかったのである。
なお明治七年に開拓使御雇米人「ケプロン」が従者と佐留太、門別を経て当地の海岸を馬乗して視察通過したが、その時の状況を後日、巡行記につぎのように書いているのをみても、当時の旅行は並大抵の苦労ではなかったらしい。
「厚別ヨリ新冠ニ至ル
蒼蝿群集シ、馬驚キ殆ト馭スル能ハズ。潮水馬蹄ニ浸シテ行ヲ妨ゲ艱苦万状今ニ尚忘レズ」
(註)ゼネラル、ホラシ、ケプロンは北米合衆国退役陸軍少将で農務局長であったが、明治四年二月雇聘されて開拓使雇問となり、八年雇期満ちて帰国。明治十八年二月二十二日病没した。このときの道内巡行の結果をまとめて本道開拓の意見書を開拓使に提出したが、その項目は札幌建府、道路、移民、測量、土地処分法、食物家庭の改造、農業の改良、農園学校の設置などであった。
なお酒井忠郁が明治十二年北海道の巡行記として要所要所の見聞記録を遺しているが、厚別の項では左のように記され興味深い。
「休泊家一戸アリ、又土人家五戸アリ、常居ナスニ非ズ。夏ニ来リ昆布鮫、鰈、海鼡等漁獲ナス。海鼡干斤余ヲ得ル百六拾匁、一斤価金ニ拾五銭、椎茸ノ如キ五百斤ヲ得、二百目一斤金三拾銭、生茸二拾五銭ト云ヘリ。此ヨリ十四、五丁歩シ厚別川ニ達ス。川ハ舟渡シー人金壱銭五厘。河ノ両岸ニ休泊家アリ、水源ハ上拾五里程チヤニセ山ヨリ発シ深所四尺、浅キ所一尺、幅四十間或ハ五十間砂底弱流。河口激浪ノ為変換ナスト誰モ閉寒セス引網ヲ以テ鮭漁毎方六拾石余ヲ得ル
(以下略)

◎郷土の発達

一、明治史
 厚賀開拓の先駆をなすものは明治四年の彦根移民であった。その残留者として中村与吉(現松兼寺川向)が浜賀張で駅停、漁業、牧畜を経営していたのが明治二十年頃であったと云われている。 と同時に山方面に於て山本森太郎が、石川県人で静内に於て巡査を拝命していたが退職して当地に移住して来たのである(現古川博宅附近)その頃既に土着していたのは旧土人で(現豊美)部落を作り、又旧大狩部国道下附近にも居り、その人達と開墾に従事し初めたのである。 この二人が当町開拓の元祖であった。(註)和人入植以前には旧土人が定住していた事
明治二二年頃には厚別川の川向(現鉄橋)に山本理平。川岸には林条次郎(現杉林誠夫附近)附近には藤野小万吉、船下甚五郎(鍛治屋の元祖)上村万蔵等が移住して来た。二~三年して山本理平は(現道南スタンド附近)へ移住し駅停を始める。(厚賀-静内間)
その頃の厚別川の往来は渡し船で、川向に『イコウ』川岸には『イカン』という土人が渡し守りをしていたという。山本理平が市街の元祖である。
明治ニ五年には山本勝三郎が家族八名(当時十歳)と共に豊田へ山本森太郎の跡地を引継いで入地した。二七年には川島徳一が同じ豊田へ、二八年には古川弥平が定住したのである。町に於ては三輪増太郎(大工の元祖)富永音次郎、長谷川吉蔵、吉原安太郎。 二九年には池田直次郎が静内から移住『ガン丸』という船で函館より門別、静内へ荷物を運び商業の先駆となった人である。又浅山直が静内戸長を止め(現東川)へ入植するも、後日厚別小学校の二代校長となる。(越前の浅倉藩の家老)三一年には小田平左エ門、田端徳左エ門、田中善戒等がはるばる越前大野郡より函館へ上陸。汽車で苫小牧へ徒歩で当町へと入植した。このようにして和人の先住者を足掛りとして遂年入植者が増加したのである。
明治二八年には佐留太から高江迄国道が開削され、今迄浪のしぶきを浴びて砂浜を通行しなくなり人々は非常に喜んだもので、現厚賀橋の川向を添って東へ旧国道へ出たものである。この国道を中心として町が開け、且つ和人も集った。
さて和人の家族数も多くなり児童の教育が論議されるようになった。
その結果、明治三十年七月二一日門別小学校厚別分校が設置され、人々は児童の喜びの姿をみて安堵し、いよいよ開拓に精魂を傾けたのである。当分校の設立については次の様な経緯がある。
明治二九年十一月三日天長節の日厚別、賀張、慶能舞の有志会合の席上、山本森太郎が児童の教育はおろそかにすべきでないとして学校設立のことを計った。翌年分校が設置せらることに確定をみたものの当時村の財政や住民の経済状態は新校舎建築の余裕なく、教育の必要論を一席弁じた人々も思わぬ壁に突きあたりはたと困惑したが、森太郎が自己の所有の倉庫を提供して仮校舎に充当することにしたので、ようやく開校の運びとなったのである。(一時、吉原の番屋で開く)
これが厚賀小学校の創立であり、七月二一日を開校記念日として今日に至っている。当時修業年限は三年で、通学区域は厚別、賀張、慶能舞(清畠)児童数は二五名であった。場所は厚別村字ハイス(現松井栄裏浜)である。三二年六月モコサ(すずらん公園)に移築。大正二年九月には弘専寺横に移転。更に戦後二七年十二月現在地に三転校し建築して今日に至っている。
特記すべきことは明治三一年は全道的に大水害のあった年で、当厚別川は川床浅かったため流域は甚大なる被害を被った。入地以来営々辛苦欠乏に堪えて開墾した耕土の大半を一夜にして流失した住民は、只々呆然としてなす術もなかった。 たまたま開墾のため現在役場支所附近で草地に火入れしたところ、この火が隣接の林地帯に燃えうつり、更に奥地へと延焼して幾日も燃え続け、トド山(現正和)に至った時、一大降雨あってやっと鎮火したのである。この豪雨によって山火事は消し止められたわけであるが、反面この雨が未曽雨の大水害をひき起したとは。
人間が生活することによって欠くことの出来ないのが通信郵便である。明治二五、六年頃に中村与吉が駅停という郵便取扱いを初めていた。之が郵便の最初であり、後三四年に郵便局が開局され初代局長となった。後三九年に位置が不便な為、現中村高義跡に移り、後旧局舎の横(石田亥之吉)の持家が局舎となって、昭和五年に旧局舎が山本滝平によって新築し、四十年間の歳月を経て、昭和四六年に現在地に新築移転して現在に至っているのである。
明治三三年には小田平左エ門が郷里(福井の八幡神社)の御神体の分霊を勧請し拝受したのが現在の厚別八幡神社である。海馬沢イソメイクが一年間祭祀し、翌年九月十五日をトし神殿を創設した(現北厚教会裏国道)昭和二六年に現すずらん公園に移転したのである。
斯様にして年々移住者の増加によって学児数も増え、学校も独立校として発展。又人ロの増加に伴って郵便局の開設を促し、一方帰向の中心たる神社も創設し、一段と村も立派に成長しつつあった。
開墾も順調に進み、現在の美原の水田一帯は『タコツぺ』即ち葦原であった。当時主食はヒエ、アワ等で米などは正月か盆のみであり、何とかして水田を作らなければと、浅山直が『ユサ』の沢水を利用して水田を作り初めたのである。(現森永治雄の西)之が当町の水田の元祖であり発祥地である。時に明治三三年頃であろう。遂時開田、改良されて広大なる大豊田の基盤を作ったのである。
明治三五年には山本森太郎、長谷川吉蔵、中村乙松、浅山直、池田直次郎、古川喜三郎等が主唱して一致会の前進である厚別民力涵養実行組合が発足した。当時の区域は厚別、賀張、慶能舞、菜実(正和)の四ケ村で協同、団結を計るを目的とした。後年一致会と改称し、組織、区域を変更し設立以来六五年一貫して協同、団結の下、部落民相互に親睦を計り、地方開発、自治に貢献したのは実に偉大なものである。他町村に類のないものであり、この誇り高き一致会の先覚者に深甚なる敬意を表するものである。尚昭和三四年に北海道生活文化賞の受賞となって顕賞されたのである。
同年に厚別川に橋がかけられ今迄の渡し船の不便から解消されようとしたが、不運なるかな雨中検定が終り翌日流失したのである。以後は奥地の道路(現在の正和行)が使用されるにつれて厚別橋がかけられたのである(現高橋三之丞の処)
一方浜賀張の姿はどうであったかというと、明治三十年頃小沼万次郎が賀張川の辺(旧国道町ヨリ)で土人を使って夏のみ地引網を行なって居たという。又土人『ウタレキ』が丸小舟で漁業を営みつゝ畑作を耕して居った様である。後三六年に星野権蔵が函館から川崎船三隻を持って日高に於ける豊富な漁場に着眼して当浜へ廻船し定着したのが初りであり、漁業発展の基礎をきづいたのである。
以後、函館から夏のみ通って居った人達も次第に定着し漁業に従事した。主として佐渡、新潟県人である。
三七年頃には中村乙松が雑貨販売業を営み、門別の飯田商店より仕入れた酒が一番売れたという。三九年には郵便局長も山本森太郎に代り、三一年八月には池田直次郎が雑貨店を開業。森永秀蔵、安達弥三次郎、藤本市蔵等が親類を頼って入植したのが四一年。
人ロの増加につれて人民の生活安定の為、当町に駐在所が設置されるに至ったのが三九年である(現町民会館跡)と同時に火災予防として門別消防組第三部が設置。初代組頭として遠藤善蔵が指揮をとったのが四二年で、片手押ポンプ三~四個の消火器のみであった。又同年に門別村が二級町村制が施行されて公選の議員が第一回村会に当村から山本森太郎が当選した。村民の熱望により四四年に有馬猛吉先生が、苫小牧王子病院副院長から当村に村医として着任し診療を開始したので、村民の歓喜は如何計りであったであろう。(現小沢伊之助附近)
尚開拓時は道路というものでなく、特に豊田へ入植者達と奥地との交通道路は現在の山岸の道路を通ったものであるどいう。三五年頃になって現在の正和行の道路が出来たのであるが、以後毎年春秋二回には全村馬から馬車、トラックとなって補修改良され、現在は舗装される担々たる道路となったが、明治の追憶は如何。

二、大正史
 当町も森林資源にめぐまれて居り、木材事業によって発展した村でもある。大正二年に長田俊一が『オサツナイ沢』『ユサの沢』から二万石の木材を搬出したのが初めてであり、材は浜辺へ貨物船に沖積みしたものである。三年には矢島清吉が大狩部の国有林から造材が初まり終戦時迄木材一途に活躍貢献したのである。四年には北厚宣教所が豊田より現在地に設置された。同年に弘専寺の建立も現在地にみるに至ったのである。八年になると沙流電気株式会社の送電が当村にも開始され、一変して各戸に点灯され人々の顔は喜びに溢れ、今迄の不便なランプ生活とも訣別して文化生活に一歩前進したのである。
輸送機関として四年に佐留太、浦河間に定期の客馬車の運行があったものの急用の時は間に合わず、九年になって客馬車は廃止され、定期自動車が運行されるようになり、当村の山内多市が日高で初めてハイヤー一台を購入して日高路を東西に走り、当時としては一大診事であり、村民達も緊急の時などは活用したのである。後年に室蘭へ移り現道南バスK.Kの創立者である。
一方鉄道であるが、当時拓殖鉄道といっていたが、十三年に佐留太から厚別迄開通し、十五年には静内へと敷設され今迄の交通の状況をみるとき進歩の著さに驚き、地域住民の喜びはさること乍らこの利用度は盛んとなり、奥地の開拓も殊の外進展したのである。
十年には今迄の沙流漁業組合は名目のみであり、ここに親睦と協力の下、賀張釣業組合が独立し、昭和初期に於ける単独の鱒流漁業に厚岸へ出漁。又養鱒、船入潤等の実現の土台を確立した原因ともなったのである。
農業の面に於ても十二年には厚別用水土功組合が設置され、水田の開拓は豊田、美原地域に活動を開始したのである。開拓に欠くべからざる農耕馬の頭数も多くなり、谷崎亀松が十二年に現在地に於て獣医師を開業した。
十四年には電話の開通が出来て居乍らにして、遠方と通話が出来るという文化の恩恵に一歩一歩あづかることになった。木材の造材が盛んとなるにつれて加工工場が(オワン)現大節婦に十二年に出来て、工場の事務所、住宅、倉庫等が当村(現藤井自工附近)に建設され、大正中期からの当村の発達に寄与すること大なるものがあった。

三、昭和史
 当町入植以来原始林の伐採、道路の開削、橋梁を架設しあらゆる困苦辛酸をなめ乍ら未開地の開墾、漁場の開漁に励み、種々の産業を開発し、神社、学校、寺院、その他の公共施設の設立に努力献身した人々の労苦をみると、今日の隆盛が決して一朝一タに築がれたものでないのである。ここに深く感謝の誠を捧げて昭和史を綴ってみよう。
昭和初期は世界的に経済界の不況の時代であった。然し村民は耐え忍んで生活をして来た。戸数の増加に伴い消防組織も充実しなければならないとして第三分団となり、四年には村民の寄附により森田式手押腕用ポンプ一台が設備することが出来た。五年には当村に変電所(現田端附近)が設置され一段と電力が増張され明るさも増したのである。
同年に上水場が設置された。今迄川水、手押ポンプ、井戸等で飲料水を夫々使用していたが、便利さに驚いたものである。町のみで漁村は湧水を利用し、農村は夫々川水、井戸等であった。場所は福籾の清水沢である。
同年に郵便局舎が新築され、市内電話が開通したが利用者は十二戸で一般庶民にはほど遠いものであった。
一方漁村に於ては四年に賀張漁業組合が独立し漁民の意欲は天をつくものであり、ここに六年五月一日には鱒流操業に日高で初めて厚岸へ単独出漁することになり、十二隻全船出航日には全村浜辺へ出て悲想なる見送りをしたものである。幸い大漁の水揚げで全船無事帰港した当時の歓迎は想像にまかせよう。引続いて九年には泉ケ丘養鱒場が建設された(現上水場の下)天然の景勝地にて且つ絶好の遊覧地であったが、惜しくも数年にして中止となり今は何一つとして面影もなく、今にして思えば現在この施設が継続されて居ったならば一大観光地となり、漁家のうるおいは如何許りであったであろう。
農村に於ては土功組合設立以後着々と開田され、豊作の年はあったが遂年増収していった。十年、十六年、二十年は夫々冷害大凶作であったが特に十六年は当地方は水稲二分作であった。十年の凶作の救済事業の一つとして築堤工事が美原地区の川岸で実施されたのである。尚二年に有限責任厚別信用販売購買組合が設立されたが、十九年に解散して門別農業会に合併し、戦後農業会解散後現在の厚賀農業続同組合が独立して現在に至っている。
さてここに特筆すべきことは十年九月二六日午后六時頃より大津浪があり、旧郵便局前より賀張市街に至る倒壊家屋数十戸あり幸い人蓄に被害はなかったが、惨憺たるものであった。当時材木は船積で浜辺に満積してあり、そのほとんどが流失した為被害が甚大であったのである。現在の踏切から鉄橋間の線路上を浪が越えたもので、如何に大激浪であったか想像以上であり、厚別川は勿論支所前の小川にも材木が流込んだのである。
又十一年秋に北海道に陸軍特別大演習が七師団と八師団に依って実施されたが、最終日に陛下の観兵式に夫々の団体が参加したのであるが、日高からの臨時列車十月五日午后五時三〇分頃、当鉄橋上に於て七名の旧土人が悲運なる事故に遭遇したのであって、当時としては驚くべき大惨事であった。
軍事についてみると六年の満洲事変後、国内外の状勢を憂うる余り青年将校によるクーデター二・二六事件が起り、続いて五・一五事件と急速に国内は緊迫度を加へ、遂に十二年七月七日支那事変勃発するや、本村からも続々と応召する者の数が上り、不幸無言の凱戦する英霊が出て村葬を施行して冥福を祈ったのである。又十四年夏にはソ満国境に於けるノモハン事件が起り、北鎮部隊の活躍が大いに報導された。戦線は拡大の果てを知らず、とうとう太平洋戦争に突入したのである。
暮も迫った十六年十二月八日未明であった。この年は記元二千六百年で十一月には東京及各地では式典が厳粛に挙行された。この重大なる時局の直面に当って国民生活新体制運動が開始され連合会、町内部落会組織出来、今日の様な隣組制度も出来たのである。一方戦況は波竹の勢で南方の各諸島は占領し、又北辺の守りも固めたのである。国民生活も持久態勢に入り、衣料点数制が衣料切符制に代り一層窮屈になりつつあった。
日に増し召集は相つぎ四五歳位迄(第二国民兵)も妻子を残し駅頭を旗の波の中に前戦へ発って行った。北方アッツ島守備の山崎部隊がーケ月余りの善戦の末、遂に全員(二千数百名)玉砕という悲想なる最後を北辺の島に骨を沈めたのである。この報道を耳にした時の感激は言葉には現されないものがある。『海行かば………』この玉砕が戦争初って以来の出来事であった。(北海道出身兵)本村からも四柱の英霊が靖国神社に合祀された。
以後一転して戦況ば不利となり、戦死者の数も増して行き玉砕に次ぐ玉砕と報道され乍らも是が非でも勝たんかなの一億総同員となり、学生もペンを捨てて銃を執って戦線へ、若き十六・七歳の若鷲達も大空へと。文字通り老も若きも、前戦も銃後も一丸となって立ち上ったのである。各家庭からは金属回収が始った。仏具、鉄瓶、銅製品の供出が行なわれ、アルミニウムは飛行機を作るのに必要と弁当箱が供出、代りに木製弁当箱となった。即ち兵器、弾丸等軍資材が欠乏して来たのである。
ここに当村からは十八年秋から十九年春迄、緊急材として(軍用材)『ヤチグモ』『マカバ』『シナ』等が四万四千石が一括して大量に造材されたのは初めてであった。戦線は縮少され始めると十九年秋から遂に本土が空襲の破目に落入り、特に軍需工場地帯が連日の如く焼野原となり尊い犠牲の数は幾千となく増して行ったのである。日本の国運を賭した沖縄決戦が二十年四月末より両軍文字通り死斗の連日であった。
陸は勿論、海も不沈艦とも云う戦艦大和の出撃となり、空は神風特別攻撃隊となって肉弾となって敵艦に対当り、総力結集してぶつかったが、善戦奮斗ニケ月六月二三日遂に全員、島民も玉砕し果てたのである。その数十幾万という。七月には相呼応してこの日高沿岸にも米機の機銃掃射があり、豊郷駅附近を進行中の列車が銃撃をうけ、当村市街地もうけたが幸い死傷はなかった。八月六日あの人類初の原子爆弾が広島に投下、続いて八日には長崎へと、九日にはソ満国境、樺太国境北千島に於て夫々ソ連軍と戦斗状態に入ったのである。来るべきものがとうとうそれは八月十五日正午、ラヂオは玉音放送による終戦詔書が発布されたのである。
戦は終ったのである。戦線も銃後も、老も若きも男女を間わずよく斗った。約八年間に渉る戦争の結果は何をもたらしたのであろう。満洲事変以来十五年間に、大陸に南海に北辺に散り我が益良夫は百数十万、国内外で罹災した何十万の尊い犠牲に対し、我々は只々冥福を祈るものである。
最後に終戦の四月十九日に北千島から沖縄へ救援の為の大成丸(一九四八t)が当村沖合約五Kmの海上で米国潜水艦の魚雷を受けて沈没したのであるが、その救援活動に全村民挙げて活躍したのである。不幸にして故国を眼前に見つゝ戦死せし数百名の英霊の報恩を毎年四月十九日、弘専寺境内塔前に於て執行していることは、さだめし英霊も満足のことであろうと思う。之も縁あってのこと村民の広大なる尊い報恩の行のうるわしきことであり、子々孫々に至る迄語り伝えられんことを。

四、戦後史
 戦火の中から日本再建へと踏出した八月十五日以降続々と出征兵士は元気で我が家へ帰還して来た。村や家庭は日に増し明るさを取りもどして行った。然し不幸にして護国の神となりし戦死者の数は五〇柱となり、この英霊に誓って復興に村民は夫々の生業に立上ったのである。
終戦前後を通じ特に食糧事情が悪化した時代であり、行政の不手際から配給の遅配、欠配が相ついで起り大混乱が起ったからである。二十年は気候不順にして凶作年であり尚一層の食糧危機に見舞われたのである。いわゆる『買出部隊』が町から村へ繰出され買いあさる窮迫した状態が各地に展開された。代用食糧として十勝方面から澱粉粕が貨車積みで移入配給したこともあった。お汁るだんごの味を思い出すと当時の労苦がしみじみと偲ばれる。幸い翌年は豊作で農家の供出促進と買出しによる横流れの防止を実施した。一方農家に対しては割当量の完全供出を強行闇売り、横流れを禁止し供出る怠る者には強権発動という厳重な処分もあった。之により窮地に追い込まれる者も多くなってきた。
二一年には生産必需品と米の物交が始まり、闇米も一俵三五〇〇円~四〇〇〇円台で取引きされたという。二三年には農地改革等により大きく変転し、協同組合の独立等により除々に農民生活も安定し、生産増強に励んできた。二三年に組合が設立された。 一方教育制度も大改革あって六・三制の新教育が実施され、二三年に厚賀中学校が現在地に設置されたのである。同年小学校開校五十周年式典が挙行された。又厚賀営林署も発足し、漁村に於ても漁港着工すべく測量が行なわれ、全村は大きく復興に前進し出したのである。
二三年に門別役場の支所が現在地に設置され、行政面も頗る便利になった。いよいよ漁港も農林省公共事業費をもって継続工事として着手することとなり、約十年の歳月をかけて完成したのである。二七年三月四日に突如として全道一帯をおそった地震が十勝沖地震と称したが、極めて強大なるものであった。本村も夫々被害を蒙ったのであるが、以後度々地震が起きているが大震災が起らんことを。約四〇余年の風雪に耐えてきた小学校が、現在地に新校舎が落成をみるに至り、誠に喜びにたえない。将来を夢見る児童のひとみは輝き、明るく健かにたくましく育ぐくまれんことを。又働き乍ら学ぶ勤労青少年の為に、北海道富川高等学校厚賀分校が設立認可をうけて開校をした。
金融機関の一つとして苫小牧信用金庫厚賀支店が二八年に開店し、大いに利用されて今日に至っている。翌年には医療機関の充実を期すべく町立の国保病院が現在地に設置され、四四年には現病院に新築完成されて広く病人の治療に専念されている。又同年に町民の要望により保育所が設置され、働く母親達に喜ばれ、三一年に町立として現在地に建設し元気一杯幼児は安心して一日中(八時間)保育されている。斯様にして戦後十年は過ぎ去ってしまったが、町は急変し町民は戦過におののくことなく安定した社会生活に日夜すごすことが出来たことは同慶にたえない。
戦後十一年より今日二十年間は又格段の転変である。文化、教育、福祉、建設の行政は進み出し、厚賀高等学校の校舎完成し、消防会館、町民会館と建設され、又驚異的なことは道路の改良である。開発建設部による国道は鉄道の上方に、厚別橋は永久架設橋となり大狩部の国道は新に開削されて舗装道路となった。急激に各車種の増加である。砂ほこりはみることも出来ない。東西、山奥方面に突走っている。高度成長の現である。全国的にも稀なる両町村による統合中学校々舎が、三階鉄筋の扇型モダン校舎が目を引き、電話も各戸に自動全国通話が出来、文化の発展によりテレビの普及は之又急増し全戸にあって世界の状勢がみることが出来る。すべてにめぐまれた良き時代となったものである。 今後は如何なるものが出現するものや。
顧みれば約九十年前に開拓の鍬を入れた先人の後に随って、固苦欠乏にたえて生き抜きし故人達も誰か今日の時代の繁栄を夢想し得たであろうか。亦不幸にして開拓途上に病に倒れ或は国事に征きし青春を異郷の地に埋めた先輩諸氏のためにも、将来次第を担う青壮年男女が益々研鑚を重ね、郷土発展のため、親睦を以て一致団結、邁進、精進されんことを期待するものである。

◎郷土民の生活断片

郷土の発達は、その出身郷土の人情風俗に影響すること頗る多いことであろう。福井県大野郡より移住した人達は積雪寒冷冬季永く稼動期間の短い北国人特有の性急はげしい気質と、淡路藩家老稲田氏を中心とする人々は、四季雪を見る事のない瀬戸内海沿岸の暖国の農人であり、年中殆んど耕作を行なえるこの地方の人々は性質温厚明朗な気性を有しておったのと対象的であるが、先人達は開拓に国衆を問わず一致団結、親睦を以って今日の郷土を生んでくれたことに敬意を表するものである。
衣食住、開拓当時は着物、さつくり、切襦袢、股引、頬冠、草履、草鞋等が主で、下駄ばき或は鹿、豚、馬、鮭の皮で『ケリ』を作って使用した。又食事は米は年に一俵位で『ヒエ』『イナキビ』『麦』『イモ』『トウキビ』などが常食で、米は正月、盆、病人などで賓重なものであった。魚類は豊富にあり厚別川に逆上する鮭、鱒、キュウリ等を食膳に供したことであろう。
移住当時の家屋は堀立小屋で、屋根及壁は茅木の皮を用い、床板の代りに小枝、枯草を敷き、その上に『ムシ口』を敷き並べ、入口の戸は、『ムシロ』を垂れ、誠に粗末なるものにして、厳寒の冬を越してきた当時の開拓の苦心が偲ばれ感慨切なるものがある。その後漸次移住の増加と農漁家の経済の充実から、住宅の改善が次第に行なわれ、採光、保温乾燥、堅牽等研究が積まれ、最近の文化的住宅は驚くべき進歩である。冠婚等の風習は、内地からの習慣で極めて質素に行なわれ、結納金という様なものは出さずとも、〆樽と称し新郎側が酒を持参し、嫁の家に至り有合せの肴で簡単なる式の習らわしであった。最近は生活改善の自覚を促進し会費制度になり祝っている。
娯楽方面として、旧局舎前に吉原番屋があり、年二回位、田舎芝居がやってきた。又浪曲はよく来て一日の疲労を慰めてくれたものである。
又田舎角力などよくやったという。又盆廻しという遊びもあった。戦前、戦後を通じ盆踊りは実に盛大であった。短い夏の夜の一時を老若男女が踊躍し踊りを観覧する者多く暁に至るをたのしんだものである。
戦中の服装は戦時態勢の国民皆苦斗で過した。即ち男子はイガ栗坊主頭で戦斗帽に国民服のカーキ色、女子はモンぺ姿となり労働に挺身した。衣類には随分苦労した。晴着は次々とモンぺ、服は幼児、児童の衣服に転用された。十九年夏以降空襲警戒訓練が実施され、各家の灯火を遮蔽し、市街は防火演習が行なわれ、国民服にゲートルとモンぺ姿はいよいよ必要度を増して行った。金属回収と学童の農作業応援が続いた。この険悪な日々は終戦迄つづき、二十年八月十五日ですべての努力、犠牲は水泡に帰したが、時代の流れに相反することは出来なかった。
終戦前後の食糧事情は言語に絶するものがあった。都会に比べて乏しい乍らも米、豆、イモ、野菜等自給の出来たことは喜ばしい事であった。芋澱粉粕の配給などもあったが、よく皆が耐え忍んできたものである。
戦後三十年が過ぎ去ろうとしている今日、今更古きを尋ねることもさることながら、もう既に過去のものとなり忘れているのである。時代も移り変り人々も夫々老境に入りつつあり、開拓せし先人は今は亡く語り伝えん人は、すっかり変った漁村、市街、農村の面影は何処へか。
若き世代の人々よ、健かに、明るく郷土の発展を期待せん。

◎厚賀一致会の歩み

この厚賀一致会は門別町の三大市街地の一つである厚賀町とその周辺の農家で構成し、漁業者、市街地居住者、農家の各層からなっている。
(即ち厚賀町、美原、豊田、福籾)
この会の歴史は古く明治三五年頃、山本森太郎、古川喜三郎の尽力によって発足し、爾来今日迄七十余年継続され、昭和三四年には、北海道生活文化賞を受賞されるに至った。これ偏に先代達の『和』の精神に徹し、円満なる人間関係のもとに明るい町づくりを実施した結果である。
ここにこの会の発足から今日迄を尋ねてみようと思う。尚発足時の会則を附記する。
明治三五年に山本森太郎、古川喜三郎等が先頭に立って一致会の発足をみるに至ったのである。大正五年に一致会の規約が出来たのであるが当時は厚別、賀張、慶能舞及菜実の居住者を以って組織したものである。総ての相談を基とし、四ヶ村の協同団結を計るを以って目的とす、として出発したのである。この組織によって村会議員を選出して居った。
大正五年には有権者数は、賀張村二七名、慶能舞三六名、厚別三五名となって記してある。大正十二年に植民地約八ヘクタールを購入し、昭和六年に植林して近年迄立派なる町内会有林としての財産であり、その売買によって保育所設立の基金としたりなどして有効に活用されてきた。売買後は再度植林して毎年下刈など造林事業を実施し、次代に托す美林に成長しつつあることは誠に心強い限りであり、又斯様に将来を思う先代の尊い行跡に対し深く感謝至すものである。
又一致会という名称も度々変遷されて来た。発足より大正六年二月までは一致会であったが、大正六年三月に沙流郡厚別村大正奉公会という会が出来た。これは上部下達の会であったが種々支障あって大正九年一月七日に奉公会の臨時総会に於て奉公会の事業全部を民力涵養実行組合という名称のもと総会を開催して再発足して昭和二一年の総会に於て解散する迄引継がれて来たのである。解散と同時に再度厚賀一致会となり今日までに至っている。
 (注)同日の決議録には左記の通り記されている。
  大正九年一月七日厚別尋常小学校ニ民力涵養実行組合総会ヲ開キ役員ヲ選挙スルコト左ノゴトシ
会 長 池田直次郎
副会長 長谷川吉造
幹事七名ヲ左ノ通り指命セリ
 古川喜三郎
 浜本安次郎
 森永秀蔵
 坂東岩之助
 橋本鶴次郎
 梶山慶時
 山口初太郎
会計主任ヲ左ノ通リ撰挙セリ
 今三次郎
神社氏子総代五名ヲ左ノ通リ撰挙セリ
 北村久吉
 山口初太郎
 古川弥平
 中村乙松
 小田平左エ門
厚別村字大ヤチ畑地七丁余歩ヲ滋来山本利平ニ貸与シアルヲ厚別尋常小学校ノ試作地トシテ其筋ヨリ借入レ該利益金全部ヲ厚別小学校ノ臨時経費ニ使用スル事
以上
尚同日に民力涵養実行組合の規約も作成し承認されている。
前記した基本財産であるが、大正十二年の民力涵養実行組合総会に於て『従来町村地借受の処、概ね利益が六百余円に達し、是を村営の利植を計るため土地買収、植林することに決定す』と記してあって、ここに初めて町内の基本財産が生れたのである。
大正十二年の総会に於て土地が左記の通り決定す。
一、厚別村字モユサ三百八拾六番地
原野、参町九反九畝一歩
二、同 三百拾五番地
畑  参町二反六畝九歩
以上大略の経過を述べたが、この大世帯の厚賀一致会が明治三五年から中断されることなく町内会活動が継続されてきたのは『和』の精神に徹し、円満なる人間関係のもとに明るい町づくりを継続的に実施した大きな原動力となっている。
然し途中若干の停滞がみられたけれども、長い歴史を持った意欲的な活動の経験は、時代の変動に対して何時までもそのままでいる筈はなかった。 会員の間から毎年の道路補修や部落林の奉仕活動だけに止ることなく『ひとつ明るい町づくりに踏み切ろう』と昭和二九年総会で申合せをし、会員一人一人の中に町づくりに対する関心が高まる一方、皆のもっと身近な共通の悩みを解決できる課題と真剣に取り組むと共に、実践し易い組織にしようと厚賀一致会の中を、会長を中心に企画、庶務、土木、文化、体育、交通防犯部、衛生、会計の八部門に分け、各部ごとに月別の事業計画をたてると共に二六区を設け、区長の下に三~四班の下部組織に編成替えをし、更に関係諸団体とも不離一体の有効的な結合を計って、これ迄まちまちに行なわれていた活動に横の連絡と相互援助の調整につとめ、地域全体としてのまとまりの形態を作った。 このように会の組織が整理され、話合いの会合が数多くもたれるにつれて厚賀町内の中に、公園が建設され、更に児童遊園地、保育所の建設、街灯の整備、町民運動会、野球、相撲などの体育大会や文化祭を主催するなど、町内全体の意識は急速に高まり実践活動へと進み初めたのである。
爾後今日まで約二十年間の進歩は目ざましいものがあり、各部門を通じ数多い会合は円満なる人間関係を次第に深め、名の通り一致会の今後の発展を期待したいものである。

・歴代一致会々長
代  氏 名     在職期間
1  山本森太郎   明治三五年  → 大正九年一月
2  池田直次郎   大正九年   → 昭和十年
3  古川喜三郎   昭和十年   → 昭和二六年
4  朝妻慈善    昭和二七年一月→ 昭和二九年一月
5  谷崎亀松    昭和二九年一月→ 昭和三十年一月
6  庄野哲二    昭和三十年一月→ 昭昭三三年一月
7  谷崎亀松    昭和三三年二月→ 昭和三五年三月
8  中村精二    昭和三五年三月→ 昭和三七年一月
9  庄野哲二    昭和三七年一月→ 昭和四十年一月
10 同
11 谷崎好弘    昭和四十年一月→ 昭和四二年一月
12 同       昭和四ニ年一月→ 昭和四四年一月
13 小谷俊雄    昭和四四年一月→ 昭和四六年一月
14 戸川長平    昭和四六年一月→ 昭和四八年一月
15 同       昭和四八年月 → 現在

一致会規約 大正五年一月起
第一章 名称位置
第一条 本会ノ名称ヲー致会ト称ス
第二条 本会ノ区域ハ沙流郡厚別、賀張、慶能舞及菜実村ノ居住者ヲ以テ組織ス
第三条 本会ノ事務所ヲ厚別村倶楽部ニ置ク
第二章 会ノ趣旨
第四条 本会ハ村治ニ関スル総テノ相談ヲ基トシ四ヶ村ノ協同団結ヲ計ルヲ以テ目的トス
第三章 集会及会員
第五条 本会ノ定期ハ毎年一月中ニ開ク
    但 時宜ニ依リ支障アルトキハ時日ヲ変更スルコトアルべシ
第六条 開会ノ場所ハ当分厚別、賀張、慶能舞、菜実ノ四ヶ村内トシ毎会決議ヲ以テ之レヲ定ム
第七条 開会定刻迄ニ会員十名ニ満ルトキハ議事ヲ開クモノトス
第八条 集会ノ節ハ事故ノ為欠席スルカ又遅刻スルトキハ前以テ会長名宛ヲ以テ書面又ハロ頭ヲシテ幹事ニ申出ヅベシ
第九条 四ヶ村ニ移住スルモノハ本会ノ会員タル義務アルモノトス
第十条 会員タルモノ常ニ時間ヲ違ハズ自他ノ損害ヲ慎ムベキコト
第十一条 欠席又は遅刻者ニアリテハ自己ガ不在中ニ関スル決議ニ対シ異議ヲ容ルルコトヲ得ズ必ズ服従ノ義務アルモノトス
第十二条 前条ノ欠席及遅刻者ニ在リテハ不在中ノ決議ニ対シ緊急ノ意見ハ之レヲ議長ニ述ルコトヲ得
第十三条 緊急事件ノ動議アルトキハ会員五名以上ノ書面又ハ口頭ヲ以テ臨時開会ヲ請求スルコトヲ得
第十四条 会員タル者常ニ親睦ヲ敦シム礼儀ヲ重ジ荀モ軽忽ノ振舞アルベカラズ
第十五条 会員タル者ハ其業ヲ励ミ用ヲ節シ其分限ヲ守ルヲ第一トスベシ
第十六条 四ヶ村内ヲ退去スルモノハ書面又ハ口頭ヲ以テ会長ニ申出ル者トス
第十七条 賛否ノ投票ハ黒白等ノ品物ヲ以テ何人ガ投票セルカヲ知ラシメザルコト
     但 賛成者ハ白 不賛成者ハ黒
第四章 役員
第十八条 本会ニ会長一名、副会長一名、会計主人一名、幹事八名、書記一名ヲ置ク
     但 村会議員ハ会長ヲ兼職スルヲ得ズ
     一、会長ハ会ヲ総理シ会議ノ議長トナル
     二、副会長ハ会長ヲ補ケ会ヲ整理シ且会長不在ノトキハ其代理ヲ為スモノトス
     三、幹事ハ四ヶ村ニ八名ヲ置キ其区域ヲ限リ会員ヲ取締リ兼テ会長ノ命令ニ従フモノトス
     四、会計主人ハ現金ノ出納及帳簿等ノ整理ヲ明確ニナスべキモノトス
     五、書記ハ記録ヲ明記シ之ヲ整頓スルモノトス
第十九条 役員ハ総テ名誉職トシ会員中ヨリ選挙スルモノトス
     但 書記ハ会長ノ指名トス
第二十条 役員ノ任期ハ満二ヶ年トス
     但 満期再選スルコトヲ得
第五章 会計及諸帳簿
第二一条 本会ヨリ生ジタル金品ハ基本財産トシテ積立利殖ヲナスモノトス
第二二条 会計主任ハ現金又ハ証書類ヲ管理シ且帳簿ノ整理ヲ明確ニシ毎会々長ノ認印ヲ受ルモノトス
第二三条 記録及名簿等ハ明確ニ記載シ其記事毎ニ認印ヲ為スモノトス
     但 本会ニ備フル諸帳簿ハ左ノ如シ、(一)共有金品台帳(二)収入簿(三)支払簿(四)出納差引簿(五)決議録(六)会員名簿(七)会誌
第二四条 会員トシテ規約ニ違背シタルモノハ本会ヲ除名シ且会員ノ交際ヲ絶ツモノトス
第二五条 第二四条ノ除名ハ総テ四ヶ村ノ共有財産ニ対スル権利ヲ亡失スルモノトス
第二六条 本会規約ハ総会ノ決議ヲ以テ改正スルモノトス
     一致会役員人名
会長 山本森太郎
副会長 池田直次郎
幹事 中村乙松 古川喜三郎     幹事 今三次郎
   宮坂進太郎 的場市太郎       出口大吉
                     太田重観
                     岩村三太郎
                     長谷川吉蔵
                       以上
   厚賀一致会組織系図

◎浜賀張漁業の沿革
当町和人の最初の人として明治二十年頃中村与吉が(旧ガンべ坂 注…松兼寺玉水川西側)在住して漁業を営んで居ったのが初てであるが、詳細は不明である。其の後小沼万次郎が賀張川の辺(旧国道町ヨリ)で土人を使用して夏のみ地引網を行なって居ったという。又アイヌ人のウタレキが丸小舟で漁業を営みつつ畑作を耕して居った程度の様である。
さて実際に当浜として今日迄の漁業(海漁)の基礎を打立てたのが星野権蔵である。氏は佐渡出身で函館の山瀬泊で手広く漁業と回漕店を営んで居ったが、日高に於ける豊富な漁場に着眼し、明治三六年に川崎船三隻を持って当浜へ回航し定着したのが始まりである。
当時の漁業は、夏はイカ付、冬はタラ漁であり冬五、六年は出稼の人達も多かった。漁獲したイカはスルメ、タラは棒タラ、平きにし、雑魚は魚粕として製品を函館方面へ販売しつつ大正初期迄続いたのである。
三隻の乗組員は一号船金子勘造、二号船一年交代船頭、三号船星野石松の船頭で、佐々木与次郎、本間高造兄弟、小池藤造、野口兼造、竹本松蔵、福島吉蔵、加賀由太郎、北市蔵、伊藤平吉、油オンコ、星野正治、児玉幸作等で当村活躍の人々は皆故人となった。
特記すべきこととして三七年日露戦争勃発するや、平石嘉蔵が当地より召集され出発したのが各戦役における当町最初の軍人であり、第三軍乃木将軍の麾下で旅順二〇三高地で奮戦、勲功あり帰還したという。
川崎船も年を追って次第に船数も増え、伊藤平吉二隻、阿部寅吉一隻、巻之内丑蔵一隻、北市蔵一隻、星野三隻となり、大正五年頃迄には三〇余世帯の定着数にもなり、次第に浜は活気を呈して来た。
川崎船の乗組員は六人で操業をして居ったが、特に冬期に於ける操業は危険をもたらした。天候の急変等で急速に帰岸出来ず、大正三年ウタレキが最初の遭難者となった。船の巻揚げ巻下しは婦人の仕事であり、ゴム類が使用される迄ズブ濡れの仕事であり、漁港完成まで続行されて来た。厳寒時に於ては何を語らん。先代達の労苦を偲ぽうではないか。
今迄の操業の外に新に『ポン立網』を初めた。之が定置の初めてであり主として鱒を獲って居った。以来高値を呼ぶ鱒に着眼し昭和に入って序々に気運が高まりつつあった。
川崎船は云う迄もなく『ロ』で操つるのであり、その労力の消耗は大変なものであった。何とかして機関による航船が出来ないものかと発案し初め、ここに日高に最初の電気チャッカーが大正十二年に塔載したが故障多く、大正十五年に石崎弥作が室蘭で四、五屯の焼玉エンジン(赤坂の有水)の動力船を造り操業開始し、日高としてもこの機関は初めてであり、当時としては誠に活気的なものであり、漁師の人達の意欲は益々高揚したのであった。 この機関は戦前戦後を通じ使用されてきたが、昭和二五年十月に室蘭市海岸町の松井興業K.Kより、ダイヤディーゼル三基二五馬力を第五大心丸に初めて塔載し、又百塚善治がヤンマディーゼル四馬力を使用したことは驚異的なことであり、ここに次第に各船が活用し現在に至っている。
次に組合活動について述べてみよう。
明治四五年六月に沙流漁業組合が設立したのであるが(富川門別賀張)職員も一・二名で名許りであり、本部は門別に置き役場内に席があった。
大正十年に親睦、協力の意図の上、賀張釣業組合が梶山慶時の名付親として独立した。組合長は石崎弥作、参事職が若生三郎であった。いよいよ協力し合って漁業に取り組み、先づ漁採市場を新築し近年迄ここで取引が行なわれた。遂年活発に行動を開始するや、ここに業をニヤした当組合員は本部を賀張に移転してはどうか、又分割してはどうかという気運が燃えて来たのは一大事である。これを耳にするや本部でも急、水産界の人々の推選により上田哲二が昭和三年に赴任した。当時の組合長は高木勉村長である。 遂に昭和三年総会に於て爆発して分割成立し、問題の地先の専用権も解決し、昭和四年九月ここに賀張漁業組合が独立し組合長は山本滝平、理事に竹本松蔵、児玉幸作、加賀由太郎、伊藤平吉各氏が任命され、本部に吉田・が残留、当組合に上田哲二が若干二四歳にして昭和四年十月八日参事として着任し、業務を開始したのである。
上田哲二は昭和十年暮に去る迄七年間、賀張漁業組合発展の為、文字通り不眠不休、東奔西走日高水産界に於ける最初のマス流網、厚岸出漁又泉ケ丘養鱒場新設、賀張港船入潤の実現運動等情熱を以って事に当りその違大なる指導力と業績に対し、我々は深堪なる感謝を捧げるのみであるが、惜しくも中途にして転任は誠に断賜の極みであり、日高水産界に於ける否全道に於ても伍して行くべき大なる功労者であることを只々賞讃する許りである。現在浦河町に在って町の為若者をしのぐ意気で功献しているのである。その七年間の業績、組合の活動を記そう。
昭和初期は世界が経済界の不況時代であった。勿論漁価も安い。この経済不況を如何に乗り切るか。又組合運営を如何なる方法で軌道に乗せるかが一番の悩みであった。
先づ第一番に実施したのがアンケートである。それは当村としては組合員の家庭内の調査ともなるので反対はあったが、方針をつかむべき最大の方法であった。
一、あなたはこの土地に何年前から居住しているか。
一、どういう漁業をしているか。
一、持船か。資材はどのような物を持っているか。
一、着業準備金はどの程度持っているか。
一、借金はどの位か。
右の様なアンケートを作成して調査をし始めたのである。当時持船としては伊藤平吉、石崎弥作で、他船は夫々の仕込みをうけて操業している人が多い様である。又船主、乗込員の債金は部合制が主としてであった。
さて漁獲の販売代金の5/100の手数料を取って組合が運営されて来たが、今迄一年平均一隻八〇〇円-一、〇〇〇円の水揚であり、この水揚代金を倍額にする為には、船主は漁具を、乗組員は労力を呈供し、夫々の漁類に適応する漁具でなくてはならないことは云う迄もないが、何しろ資材が多種で完備し、反数を多く船に積み、船を整備しなければならない等、種々の点について検討し、ここに今迄の5/100を10/100徴集することにしたいという参事の提案に対し、全組合員は猛烈な反対をした。氏は敢然としてこの案を実施すべく船主会議は数十回、総代会、総会十数回、乗組員、汽関士組合数十回の会議を重ねた結果、ここに提案は可決されたのである。5/100を十年間据置き、即ち組合の資金を貯えることである。
これは七年間で予定額に達したという。今迄より倍し組合員の漁業に対する意欲と協力が生み出され着々と軌道に乗って来たのである。
次に氏が総ての情報、書類等により、昭和五、六年はマスの大漁年であることを確信し、ここにマス流網の操業を全船実施することになった。
即ち昭和六年五月エリモ岬を廻船して厚岸を根拠地として出航することに決定したのである。勿論日高各漁組に於ても実施したことなく、只賀張単独の出漁である。問題は如何様に危険なるエリモ岬を乗り切ることが出来るか、又気象状況をどう把握するかが問題である。当時はコロンブスが米国大陸を発見と同様に一大生死をかけて当に海の男の度胸をここに示すべく、又組合運営継続の最大の難関であった。各船主、乗組員との合同会議、図上作戦等線密なる計算、用意周到、万々怠りなり出港日を待ったのである。いよいよ五月一日十二隻全船出漁となった。今日では軍艦マーチが流れ盛大なる歓送の一時であるが、当日は全村老若男女浜辺へ出て船影が見えなくなる迄旗を振り帽子を振り、又なぎさに膝づき合掌している老母の姿もあり泣き涙で見送った。 誠に筆舌に記し難き悲想なるものであったという。当しく出征兵士を見送る今世の最後の別れの如く。十二隻は北市蔵、加賀由太郎、山口初太郎、竹本松蔵、漁浜長吉、阿部喜一郎、田中田七、巻之内丑蔵、柴野祐矩、野口藤太郎、伊藤平吉、近藤幸作であった。
当時の厚岸の漁報を記してみよう。
五月三日全船無事着岸し、いよいよ操業にかかったが、如何せん毎日の出漁が全船皆無である。当時流網目は四寸八分の四〇掛、深さ七尺~八尺であった。厚岸は『ハエなわ』三尋漁法であり毎日の如く水揚は続いた。水温が低いのである。氏は五月八日当村の金として大金である。組合二、〇〇〇円、個人一、八〇〇円を持参した。二十日頃になっても皆無である。勿論米、みそ、醤油はなくなり、数十名の乗組員の食費代は量む一方で、二八日頃には金子勘蔵がシブ一袋買って(宮腰商店)ここに残金は三〇銭となった。ところが三十日早朝、全船大漁旗をなびかせ朝日を浴びて帰港した時は、男泣きに泣き、手をとり肩をたたき合って大漁を祝したものであった。 今度は漁獲販売である。市場もないので水産界扱いで仲買人と話合い入札販売権をとり、青森の沖吾、千葉商店二店の冷凍船と契約した。毎日の大漁である。地元民は只々驚嘆するのみである。立値が出て来た。六月十日に仲買人が入札に参加しなくなったのである。一大事である。上田勘平という厚岸の80%は仕込みを受けている親方の一声がかかったのである。早速飛んで面談。今日迄の入札、組合員の事情、種々に話合い、馬事雑言を浴びたが一歩も退かず四日間通った。遂に承服してくれた。後日大変力になっていただいたという。六月末日に最高額四、八〇〇円の水揚をして全船帰港、盛大なる祝賀会を行なったという。
当時の漁価は時シラズ一匹四K平均四八銭、重油ドラム一缶八円七五銭、マシン油二缶入十八L四円三十銭、灯油青柳印二缶入十八L六円五十銭、宝印で四円九十銭であった。
又漁獲物の協同販売することが指針となって、昭和六年秋には株式会社ミツウロコ厚岸魚採市場が新築となり、特に流網を指導することが出来たのである。
エピソードとして漁業中一船の流網を流失した事件である。急に網を作ることも出来ず、岩淵藤太郎に依頼して釧路へ飛び、一船一船聞き歩いた結果、白糖の船が拾ったとの情報により白糖迄徒歩で一軒一軒聞き、やっと船主をつきとめ、五月十四日に釧路市場へ揚ったのである。出航当日の全村民の悲想なる面影が浮かび、その村民の真心が神仏の御加護の賜なりと感謝にたえなかったのである。
斯様にして厚岸の初出漁は大漁に終り、幾多の尊い経験を体得して昨日への希望に向って邁進するのみである。
翌七年は不漁の年廻りになっている様であるが、全日高の漁組は行先霞多布へ向って出航したが大不漁に終った。然し地元民に対し市場開設や流網漁法等実地指導を残して来たのが幸いであった。ところがここで奇しく北方の出漁権を獲得する段階が生じたのである。これは日本水産界の明星である。それは七年七月に『リンデー大佐』が太平洋横断飛行中、幌ム占守島に不時着したのである。この記事が朝日新聞に記載されその一端に『水量が四尺程も増大している』という談話があった。この不時着は『日米若し戦わば』の調査とも受けとめる(海路、気象、気流、その他)直に栗本旅館の一室で各組合員の責任者と夜明まで談合し、一番列車にて札幌へ飛び、北方漁業権について陳情、四〇〇隻の許可を道の水産課長が上京、ここに農林省の許可を得ることが出来たのである。 全道二〇〇隻、内日高二〇隻である。この操業は昭和十六年迄続行し、戦時中は自然に行けなくなり消失し、戦後復活したのである。
斯様にして鱒流しの経過を述べたのであるが、ここに漁業売上金の積立も八年で打切り、その使途を如何にすべきかが問題となり、造船計画を打立てた処、十屯末満五割が国、三割道の補助を知り、野口信俊技士を動かし、六隻五割補助を以って新造船を建造。赤坂の六~八馬力の機関を取付けることが出来、漁民は一銭も出さずに出来たのである。又待望の百反の持網も出来たという。一反は四円であった。
漁村の維持経営策として沖合漁業単一主義は不可にして、沖合、浅海並立すべきでありとの見地から従来発動機船建造奨励と同時に、昆布銀杏草の繁殖保護に鋭意施設を行なって来たが、同方面沿海に於ては昆布銀杏草漁業は如何に投資し施設を加えても結局成功覚束なく、漁業者の唯一重要産業として頼むに足らずを見通するに至ったので、ここに市街地西端に所在する泉ケ丘の盆地を利用して虹マス養殖場を設置するの計画を立て、漁業者の副業として燻製及粕漬等の製品加工品の生産をなさしむると同時に、天然の景勝地にして之に少しく人工を加えるに於ては絶好の遊覧地となるべく旅人遊客の吸集策を講ずることになって、泉ケ丘養鱒場建設となったのである。
泉ケ丘一帯は湧水至る処にとうとうとして溢れて居り、養地設備に最適地であり、道庁飛島技師の調査する処、地質、水質、気温、水量共にことごとく好条件を具備しているとの折紙をつけられたのである。
昭和八年十月工事着エ、昭和九年八月二六日竣功式を挙げたのであるが、工事報告によって全望を明らかにするが、その工事完成に当っては大部分が玉石である。この玉石を賀張青年同志会諸君の倦ずたゆまざる勤労によって成されたものであり、僅少額によって出来たのである。そのかくれたる影に青年のうるわしい勤労がひそんで居ることを忘れてはならない。又この完成には村民の理解と寛容、協力がなければならない。漁業の発達の為、基礎、足石の種を生えて行く。人生に足石を印していく。 これは歴史的なものであり、創意工夫そして実行決断が四十年前の人達の和哀協力の賜であり、偉大さがあったのである。然しこれも数年にして中止してしまったが、今日誰かが之を引継いで居ったならばどの様になったであろうか。只々驚天するものでばなかったろうか。誠に残念なことである。人は将来を、数十年先を考える猶予はないことを。
尚釧路国虹別フ化場より虹鱒卵五万粒取寄せ、上田氏自らフ化事業に没頭し、八割以上見事に成功し、売込先は三越、グランドホテル、二幸と契約、虹鱒フライは当町泉ケ丘産である。
昭和九年八月二二日竣功式に於ける工事報告を述べる。
本日茲に本組合経営に係る泉ケ丘養鱒場竣功の式典を挙ぐるに当り工事の概要を報告せんとす。
既も本組合部内は沖合漁業によりて生活する者全戸数の九割を占むる漁村たり。故に斯業の消長は直に漁家の経済に及ぼすのみならず、本村の浮沈に関するの重要性を有せり。最近著しく発動機の漁業勃興したりと雖も、業態の関係上経済の動きは常に不安定にして、本村の進展上洵に遺憾とする処なりき。故に本組合は本村開発の中心機関として常に努力を怠らず、漁村経済の確立は沖合漁業と浅海漁業の併立するにあらざれば之を計り得られずとして先に浅海漁業の勃興を計り、人工的繁殖を企図実行せるも如何にせむ天然岩礁にめぐまれざるを以って之が実積を収むるに困難なる状態に存り。
依りて之に代るべき生命事業の研究をなしたる結果、本村には諸処に豊富なる水量を有する湧水源あるにかんがみ、自然の岩礁にめぐまれず浅海漁業の不振を補うは之が天恵を利用するにありと信じ、本事業を計り、道庁の実地調査を乞たる結果、水質、水温、水量共に好適なるを認められたるを以って、本事業によりて健全なる漁村建設に努むると共に、行詰まれる漁村経済の更生を計らんが為、本年四月一日道庁に申請し、こえて六月二日、本村富永武雄と工事契約の上、六月三日工事に着手し、其後七六日の日数を費し、本月十七日竣功を見たるなり。
本工事の概要は、養魚地総坪数三二二坪にして、第一第二成魚池各、一五〇坪、仔魚池二〇坪、仔魚飼育池二坪は各玉石練積とせり。貯水設備は三ケ所共に天然岩礁を掘さくし、玉石練積を施せり、
この工事費二、〇七二円八〇銭を要し之が内訳
養魚池工事  九二四円一一銭
玉石練積工事 七七五円五〇銭
水門工事   一一七円二〇銭
河水誘水工事 二二円九〇銭
湧水誘水工事 六〇円四〇銭
排水工事   一四円二五銭
貯水設備工事 一四〇円七〇銭
沈澱槽工事  一七円七四銭
以上財源は 一、地方費水産業補助金  二五〇円
      一、門別村助成金     三〇〇円
      一、本組合出資金     九一七円八〇銭
      一、組合員寄附金     六〇五円
を以って充当せり、因に組合員寄附の内容は、練積、玉石及敷玉石、五五・六坪を採石寄附せるものなり。工事監督は不肖上田担当せり。
要ば請負人の誠実と組合員の一致協力が本工事の完成を見たる素因にして、洵に欣快に堪えざるなり、以上報告す。
昭和九年八月二二日、賀張漁業組合参事 上田哲二
次に賀張漁港について述べてみよう。
現在斯様に漁港が完備されているが、之が実現に当っては遠く昭和八年に坂上るのである。当時船入潤といっていたが、その要望の根拠は
一、優良漁場を控え漁船の往還に頗る便なること。
二、漁獲物の消費地との交通運輸又鉄道の利便により頗る円滑なる事
三、漁獲物の処理機関完備し居ること。
四、賀張港は日高三石より以西室蘭港に至る間の沖合漁業根拠地にして、発動機船その他五〇数隻を擁し、鮪、鱈、鱒等の一大漁場なること
五、日高三石及室蘭間の一避難港として利用価値多大なること。
六、現今設備なきに於てすら室蘭トド法華、様似方面沖合漁業者の廻航根拠として本地沖に於て従業するの実例あること。
七、厚別、賀張約三〇〇数戸の者は、其の必要を痛感しつつある。更に如上の必要条件を具備するの最適地なり。実現の暁は現分の水産総額二〇万円は倍加するに難からずと思慮す。
  尚、日高、胆振漁民は等しく本地に築設せられることを利地的に要望しあり。
以上の要件により昭和八年七月二二日賀張船入潤築設要望厚別、賀張両村民大会を賀張青年会館に於て開く。出席者三〇〇名名熱狂裡に左の宣言並に決議可決す。
宣言 産業の向上発展は立国の基礎にして益々鞏固ならしむるは言を侯たず。故に何人と雖も之が開発将励に讃同せざるものあらん。現在経済界の不況は世界的に人心を脅威し、各船の事業は萎ビとして振わざるの状態にあり。然どもここに供手傍観其の成るがままに放任するに於ては我等の前途実に暗たんたるを想起するに難からず。故に当局ここに思いを至し経済の更生は即ち各人の自奮更生に俟たざるべからざるを教ゆ。抑々賀張港は天与の宝庫たる優良漁場を擁し、無限の海田開発の根拠地として、更に胆振、日高国の漁場開拓上亦となき地位にあり、故に賀張港に船入潤を築設し以って水産業の進展を計り、延いて諸産業の勃興を計らんと欲す。ここに厚別、賀張両村民協力して之が達成を期する為、賀張船入潤修築期成同盟会を組織し、目的の貰徹を期するものとす。
右宣言す。
昭和八年七月二二日 厚別、賀張村民大会
決議文
一、賀張船入潤築設を速かに達成せしむることを期す。
二、本目的達成の為、門別村会に進言し立案計画の上、村会の同意を得て当局の許可申請の手続を完了。おそくとも昭和九年度より実行することを期す。
三、賀張船入潤修築期成同盟会組織を提認す。
右決議す。
陳情者 池田直次郎、森永新耕、山本滝平、山口初太郎、上田哲二
更に期成同盟会は厚別消防所楼上に於て大会が開催され、一段と幅広く役員選出し、会則も作成承認を得たのである。
斯様にして運動展開したものの国政は軍事に向けられ、遂に昭和十二年支那事変勃発と同時に総力結集して之に当り、引続いて大東亜戦争に入るや一も二も軍需産業の国策であったので中止の外なかったのである。
戦後再び漁民の火は点ぜざるや、昭和二二年に測量調査を実施する段階に至りここに十数年来の苦難の道が開かれたのである。翌年からいよいよ農林省公共事業費をもって継続工事として着手することになった。二五年五月二日漁港法制定されると翌年第一種漁港に指定され、工事着手と同時に室蘭土木現業所厚賀漁港修築事務所が設置されるに至ったのである。爾来十数年に渉って工事が施行され一応厚賀漁港は完成されたのであるが、今日尚之が完備に進んでいる。
さてここに至るには並々ならぬ先輩諸氏の苦労に対しては、只々感謝の外なく、又最後迄初志を貫徹したる漁民の熱意の然らしむる処である。現在岸壁に立って朝日タ陽を浴びて出入する漁船を見る時に、遠く明治末期に移住せし先代各位の血のにじむ御苦労を偲ぶと共に、専従せし我々はこのめぐまれたる広大なる環境にあって、益々生産の増強と漁民の生活安定向上とを図り、躍進賀張港の期待を背負って一路太平洋の荒浪に突進して行こうではないか。
組合名と歴代組合長
組合員        組合長     就任月日   退職月日
  沙流漁業組合     高木村長    明治45年6月→大正9年
賀張釣業組合     石崎弥作    大正10年  →昭和2年8月
〃          竹本松蔵    昭和2年8月 →昭和4年
賀張漁業組合     山本滝平    昭和4年9月 →昭和15年
門別漁業会      山本滝平    昭和16年 →昭和24年
厚賀漁業協同組合   右近作一    昭和24年8月→昭和27年7月
〃          石崎幸吉    昭和27年8月→昭和30年7月
〃          舛岡亀一    昭和30年8月→昭和33年7月
〃          巻之内謙太郎  昭和33年8月→昭和37年
門別町漁業協同組合  矢田与之助   昭和37年4月→昭和40年3月
〃          巻之内謙太郎  昭和40年4月→昭和46年3月
〃          梶川久太郎   現在に至る
特記として
昭和二十年四月十九日未明、輸送船大成丸が当浜沖に於て遭難したる時、当時その報に接するや僅か三隻のみしかなく船首に機関銃を竿頭に日章旗を立てみぞれ降る波浪高き沖へ出航し、激斗十数時間にして数百名の救助と遺体の作業は、全漁民決死の誠の至す処として長く町史に残されん。
以上

この記事を書いた人

 2010年3月まで、北海道の「オホーツク地方」に勤務。2010年4月「日高優駿浪漫街道」沿線に転勤異動。2013年4月千歳市に転居。水のあわない仕事を渋々している。早く株で儲けて株式の配当金と家賃収入で所得を得、仕事を辞め”不労者”になるのが夢。こよなく苫小牧を愛し住宅ローンを返済中(T_T)  最近、花粉症になったみたい。  えらく気に入っている言葉は"刻舟求剣"である。  M3を買うのが夢のまた夢!!

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