郷土史「厚賀町史」 第三章 交通・通信

783-001-02

第三章 交通・通信

第一節 交通

◎道路と海運

当町の主幹道路は苫小牧から浦河、様似を経て十勝に至る二級国道(二三四号線と二三五号線)であるが、夫々町の三市街地の心臓部と海岸線を貫通(この道路は本道の黎明期からいわゆる東蝦夷地の主幹道路としてもっとも重要視されたものである)している。
昨年全線舗装され各種自動車がウナリを上げて突走し用達する今の交通時代。六、七十年前の交通状況を調べてみるのも温故知新の例の様に先代の苦労を偲んでみよう。
日高沿線は江差、函館方面と共に海岸線は早くより開けた。勿論漁業関係の仕事をして居ったと思う。これ等の人々の生活物資は帆前船で函館方面と連絡して居ったのであろう。当町も明治三六年に浜賀張で海による交流が初ったのである。現今は函館方面とは経済交流も少なく、主として札幌中心であるが、日高に鉄道のない昔は逆であった。売買はすべて函館に依存して居ったのである。帆前船では『ガン丸』明治三一年函館の石塚所有)が米、味噌、醤油、その他商品を運び、沖の船から小舟で砂浜に上げ、更に秋には大、小豆など雑穀を買入れ、砂浜から沖の船へ積込まれたのであった。秋、冬の波浪高く定期便の来ない時などは日用品が不足し、じっと船を待ちわびたものであった。これは国道の開通か、森林軌道が通じ延長されて鉄道が開さくされる迄続いたものである。
然し官庁都札幌、室蘭方面へ行くには勿論徒歩で、又は駅逓の乗馬車で一泊しつつ沼ノ端駅に到達し、昭和二五年に開通した室蘭本線に乗って岩見沢経由して札幌へ出たものであった。
明治の道路は道路というものでなく、当町の場合は先づ海岸線に沿うて歩いたものである。特に現在の鉄橋下を渡船により渡り、当時川向に土人の『イコウ』と此岸には『イカン』が川番をして旅人を渡したものであった。そして波しぶきを浴びつつ静内方面へ行ったのである。
やっと明治二六年から二ケ年を要して佐留太-高江間に道路が開通した。明治三五年に厚別川に橋がかけられた(現在の国道の橋の処)。ところが札幌より検定官が来村、雨中検定完了したが、翌日には橋が流れたのである。流れる橋に工事関係者は手を合わせ拝んだものだと古老は云う。大狩部の山すそを歩き旧山道を樹木うっそうたる尽尚暗き道を静内へ向ったのである。
又山奥方面へは現在の中学校裏道(山岸道路とも云う)を通ったのである。即ち現在の水田地帯は一面の『タコッぺ』野地しっ地帯で通行は不可能であった。河川に添うて跋歩するにすぎず、勿論架橋なく降雨続けば河川増水氾濫し、又道は泥濘膝を没する有様にして、その困難と不便とは到底想像すら及ばざる所であり非常に難渋したといっている。明治四〇年頃になって現在の道路が開さくされ、春秋二回に全戸あげて道路修理に『クワ』『スコップ』を持ち、農家は馬車を出して川砂利を敷いたものである。それが最近まで奉仕されて来た。今や国道は勿論、町村道に至る迄舗装され、昔の面影を偲ぶことは出来ない。先代達の労苦が実ったのである。忘れてはならない。

◎鉄道

当町を従貫する国道に沿って三市街の海岸線を走っているのが日高本線である。この線の開通が当町の開発に多大の貢献のあったことは勿論であるが、それ迄は駄馬によるか海運によるしか方法がなく、生産物資の移出。必要物資の導入などは思うにまかせなかった。
大正二年王子の社線(森林軌道)が富川まで来たので一般人も乗せるようになり、日高の玄関から汽車にのれるようになった。これは二呪六吋とかいう狭軌であった。ついで大正十三年に厚別まで鉄道が開通(当時は日高拓殖鉄道)するに及んで一時隆盛を極めた海運も次第に衰微し反面鉄道の利用度は益々盛んとなり奥地の開拓も進んで来た。
厚賀駅は大正十三年九月六日開駅(旧厚別駅)
昭和二年八月一日 国鉄売収する
この時代より石炭使用の貨客混合列車で、各駅で機関車を離して木材車、貨物車を置いたり、つないだりし、亦客車を連結して走るという呑気なもので、当駅より苫小牧駅迄三時間を要する文字通りの純行であった。冬は客車内で『ダルマ型』投込式の石炭ストーブであり、車掌が十能をもって石炭を放り込んだもので、今になってみてなつかしいものであった。
昭和二九年より待望のジーゼルカーが運行するようになり、三五年から準急が四一年からは急行『エリモ』が様似-札幌間を走るようになり、厚賀-札幌三時間でツッ走り日帰りも容易になった。長年月に渉り客貨車を引いた機関車も遂に姿を消し、あの汽笛一声、力強い発車の息は永遠に去り、時代は移り変っていくのであった。

◎乗合自動車

国鉄と共に私達に交通の便を計ってくれた乗合自動車(バス)について述べてみよう。
大正四年には富川から浦河迄客馬車が一日何回か通ようになったが、今迄徒歩であったのが楽にして目的地まで行くことが出来るようになった。その客馬車の発心者が住友半三郎であった。大正九年に富川、浦河間に乗合自動車が営業するようになり、之又当時としては活気的なものであったと思う。五~六人乗りで今のジープの様なものである。特に当町出身の山内多市は独自にして大正九年にハイヤーを持ち東西に車を走らせ、緊急の時などは助かり皆に喜ばれ、約十年余り交通に貢献したのである。後室蘭に移住し現在の道南バスK.Kを創立し、運輸関係に於ける第一人の功労者である。(当時ハイヤー一台六〇〇円で、フォード車現在札幌に保存)昭和二九年には道南バスが日高路を走るようになると、各町村とも奥地との交通を計り、三三年には遂に太陽、正和に一日三~四回往復することになり、部落民は徒歩の時代を偲びつつ喜びを分ち合ったものである。

◎貨物自動車

当町に於ては昭和十一年美宇沢へ木材搬出に細川嘉重がトラック四台(シングル)を使用したのが初めてである。今迄搬出は馬に依存しで居ったのであるが能率的に大変便利で、翌年より年を追って各業者が入り運輸上に新機軸を画したのである。十六年大東亜戦争に突入するや、油類が制限され、ガソリンの一滴は血の一滴として遂に木炭ガスを利用して走るトラック、バスになった。戦後数年にして急速に普及し、すべての業種が夫々用に応じ小型、大型車を以って事業なし現在は小谷運輸K.Kが盛大に事業を行なっている。

◎自転車

当町で最初に百転車を愛用したのが池田直次郎である。二八吋車で、ペタルに足がつくのが大変であった。この自転車を見ようと人が黒山に集り、前後車で倒れないものかと不思議でならなかった。時大正十年であった。十二年には星川小学校長が持った。一般に普及したのは昭和五年頃である。男女青年は勿論、壮年に至る迄門別、静内方面へと往復したものである。戦時中ゴムの統制によるタイヤの不足により著しい支障をうけたが、こんな状態は戦後三~四年続いたようである。この自転車店を開業したのが小野長雄である。大正十三年に共栄から移住し、地方で修繕等を身につけて、近年まで続けられて来た。近年の自転車の愛好者は幼児に至るまで乗り廻されている。

◎オートバイの流行

さてペタルを一踏すれば十m位走る自転車は経済的な人々の交通機関であったが、エンジンの力で走ったら又楽だろうと、ここにオートバイが登上したのである。町医者であった小野貞樹が『インデアン』三・五馬力を乗り廻したのが昭和六年であった。それ迄は乗馬又は自転車によって往診されて居った。翌年守先不二夫が英国製のラージー三・五馬力、北村一男がハーレー三・五馬力を夫々乗用されていた。又同年に安田敬吉がオート三輪車七・五馬力を入れた。当時としては診しく「高嶺の花」で到底一般に使用することは夢想だけに出来なかった。後十九年春まで大ハツ三輪車を安田某は主として屋根柾運搬等に使用して居った。尚前記三人の後に遠藤広治、藤林良助、小野長雄などが乗用していた。
時移り戦後十年頃からオートバイの流行時代となり、価格もまた手頃となって来たので忽ち青年、壮年者の愛用となった。

◎自家用車時代

岸内閣に次ぐ池田内閣の所得倍増政策は工業の発展を招来し、輸出は急激に増大し、三一年に始まる神武景気は、更に進んで岩戸景気となり、日本の復興発展は驚異の的となり、諸種の交通量の増大は貨物トラックと自家用車の時代を招来し現在となった。されば道路行政も国、道、町あげてカー時代の要望に応えるべく山村に至る迄舗装となり、砂塵を巻き上げて走る姿は消されていった。ここに農村に於ては馬搬に代り、小型トラックとなって活動し、各家庭には同様に乗用車を使用する時代となった。確かになくてはならない必需品となったのである。
時代の流れは日進月歩である。文明の時代に生を受けている我々には今後幾十年の世相を見極めることが出来るであろうか。夫々の先代達が今日の繁栄を夢想し得なかったと同様に。

第二節 通信

現今の松兼寺川向に(一名ガンべ坂)と云って居ったが、その上り口に中村与吉が只一戸ありこれが当町最初の和人である。その人が旅館業を開き生活をしていた。同時に駅停という郵便取扱いも行ない、之が当町郵便業務の初りである。又寺小屋式の教育も行なって居ったという。それが明治二五~六年頃であった。
厚賀郵便沿革、明治三四年十二月二十日に日高厚別郵便局(三等郵便局)の設置となり、人ロの増加、産業、文化の発展は通信機関の完備必要性を痛感し、昭和十六年一月に特定郵便局に昇格し現在に至る。
局舎の位置。厚別郵便局が開設したるも取扱数の増加に伴い局舎の位置が不便なため、明治三九年四月に現在の中村高義跡(八〇番地)に移転す。その後旧局舎の横(石田亥之吉)の持家が局舎となり、昭和五年に旧局舎が山本滝平によって新築した。四〇年間の歳月が流れてその間悲喜こもごもの便りを運び、世の転移と共に町も大きく変り、局舎も町の中心へと要望に応えて昭和四六年に志賀常次郎が新築移転し現在に至っているのである。幾多の変還を経乍らも開局以来七〇余年の道を町民と共に歩んで来たのである。

◎郵便

明治三四年末に郵便取扱い開始されるや、郵便、為替、貯金の業務を取扱いしたが、集配、運送は大変な仕事であった。即ち逓送である。
駅停が五里置きに配置されてあり、門別と厚別間は山本理平、厚別-静内間は中村与吉が行なっていた。道路は特に悪く馬で集配、逓送をした。静内(旧下ケ方局)局へ運送は一苦労であった。厚別山道は昼尚暗く、密林で熊も出るとのことで、昔のトーフ屋のラッパと同型の品を持たせて山中は吹鳴し乍ら通過したものであった。この逓送は大正一四年一一月六日迄続行された。
明治四三年に電信業務が開始されるや、人々はその速さに驚き年々取扱数も増加した。大正五年に保険業務も始り、大正一四年には郵便局間に市外電話が開通したが、一般は使用出来ず、その必要性を痛感して昭和六年に市内電話が開通した。申込四〇余名あったが、負担金の都合で十二名で出発した。その架設工事費は二八〇円であった。戦後数年間は一般に設置することは高値の花である。然し時代の変遷により急速に電話の普及をもたらし、交換台数も増え、昭和四三年には遂に自動電話となり、門別富川電報電話局が開局され、全国各地と即時化され、厚賀局番〇一四五六五と設定し、四九年一一月現在は一般七四五。農集三二四。公衆電話二九。
尚貯金並簡易保険の取扱状況左の通り。

◎貯金取扱状況

年度    受入口数    受入金額         払出口数   払出金額
昭和30年  二一、六七六   一八、九八九、六七一  二、七八九   一六、八六二、一五五
〃 40年  一一、一七四   五五、七二九、〇九八  二、九八九   四四、九三〇、三一三
〃 45年  一二、二七二  一六五、二五四、三八六  三、六八一  一二四、〇〇〇、四五二
〃 47年  一二、七一七  二四五、五六八、九五四  四、三七二  一九七、七〇六、一〇二
〃 48年  一一、九五三  二九九、〇五二、一七一  四、四五五  二四七、二八一、五五五

◎簡易保険取扱状況
年度    受入口数    受入金額        払出口数   払出金額

昭和30年  一一、四四三   三、七四二、一三一  一七一      二二八、九四四
〃 40年  一〇、六八六  二二、六七五、六三四  二一七    九、五二二、六八〇
〃 45年  一〇、一五九  三六、六〇八、八八一  一六九   一一、八六七、三二二
〃 47年  一一、七〇五  五九、三二四、一二〇  一五八   一一、九一六、三三八
〃 48年  一二、一三六  七五、九〇三、五四七  一八九   一四、七一一、六三九
代   氏名     就任       退職        備考
初代 中村与吉   明治34年12月20日  明治36年 2月21日  死亡
二代 飯田広治   明治36年 2月21日  明治39年 4月 6日  死亡
三代 山本森太郎  明治39年 4月 6日  大正 9年 7月31日  死亡
四代 山本滝平   大正 9年 7月31日  昭和23年11月12日  死亡
五代 鎌田正雄   昭和23年11月12日  昭和33年 3月 1日  現存
六代 中村高義   昭和33年 3月 1日  昭和44年 6月30日  現存
七代 志賀常次郎  昭和44年 6月30日  昭和47年12月 1日  豊浦局長
八代 岩瀬隆    昭和47年12月 1日  現在ニ至ル

この記事を書いた人

 2010年3月まで、北海道の「オホーツク地方」に勤務。2010年4月「日高優駿浪漫街道」沿線に転勤異動。2013年4月千歳市に転居。水のあわない仕事を渋々している。早く株で儲けて株式の配当金と家賃収入で所得を得、仕事を辞め”不労者”になるのが夢。こよなく苫小牧を愛し住宅ローンを返済中(T_T)  最近、花粉症になったみたい。  えらく気に入っている言葉は"刻舟求剣"である。  M3を買うのが夢のまた夢!!

コメント

コメントする

目次